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「障害を受容しきる」なんてことは、あるのだろうか。
「この子、人工内耳だよね。ってことは、あれか。この子の保護者は、自分の子どもがきこえないってことを受容してないやつですね。」
そう、彼は言い切った。
この言葉をきいた(正確には手話だったので、見た)瞬間、怒りで涙が出てきそうになった。
お前に、何がわかるんだ。
と。
この言葉を放った彼は、聴者だ。そして、10年以上聴覚障害者とかかわってきている。もちろん聴覚障害のある子どもから大人、きこえない子をもつ親とも。そんな彼から放たれたということもまた、強い衝撃だった。
わたしの聴覚障害の発覚は、比較的遅め。小学校の就学時健診だ。
母は、幼少期からわたしがきこえないのではないかと保健師さんに相談していたらしい。(当時の母子手帳にもきこえへの不安が記してある)
しかし、
・早生まれだから発達が他の子よりゆっくり
・(良聴耳側から大きな音で)話しかけると反応がある
・第一子だから心配しすぎ
と取り合ってもらえなかったと。
そんな母は、わたしの聴覚障害が発覚したときに藁にもすがる思いで
「人工内耳はできませんか?」
と耳鼻科へ尋ねたらしい。結果的に
・今から訓練をして音をききとれる聴力ではないこと
・良聴耳を活かして生活していくことの方可愛い現実的であること
を理由に、人工内耳装用には至らなかった。
その後の母は、何事もなかったかのようにわたしを一人の娘として育ててくれた。妹たちの前では、「きこえにくい子」である前に「お姉ちゃん」として接してくれたし、習い事のバレエも続けた。
きこえにくいことで、友達や同級生の保護者、学校の先生から理不尽なことを言われたことは、一度や二度ではない。その度に、母は学校に駆けつけた。
母は、決してわたしを頭ごなしには叱らず、状況を細かくききとり、「きこえにくいこと」が原因であるとわかると周囲へわたしのきこえへの理解を求めてまわってくれた。
大学に入り、さらに聴力が落ちたことでわたしは手話を使うようになった。
今までなんでも受け入れてくれた母は、当然わたしが手話を使うことも受け入れてくれるものだと疑ってもいなかった。しかし、手話を使うようになったことを母に話した当初、彼女の表情が曇ったことを覚えている。
それから。
母は時折昔を振り返り、わたしに語るようになった。
・なんでもっと早くきこえないことを見つけてあげられなかったんだろう。
・良聴耳の聴力が落ち始めたタイミングで、ろう学校へ相談に行けばよかった。
・進学の選択肢に、ろう学校を入れなくて正解だったのだろうか。
てっきりわたしがきこえないことをさも当然かのように「受容しきっている」と思っていた母。でも、全然受容なんかできていなくて、時に迷いながら向き合ってくれていた。
そんな母との会話を思い出し、わたしは
「この子の保護者は、自分の子どもがきこえないってことを受容してないやつですね。」
と言い放った彼のことばに憤りを感じた。
自分の子どもが大切だから
少しでも生きやすくなって欲しい。
そう願って人工内耳を選択したのではないだろうか。
人工内耳は、補聴器と違って手術が必要だ。全身麻酔をする。頭部に傷が残る。顔面麻痺の可能性だってある。
人工内耳をしたからといって全てのことばをききとれるわけではない。言語聴覚士と何年にもわたって訓練を重ね、ようやくことばとして音を認識できるようになる。そのために、保護者だって努力が必要だ。
そんな諸々を重ねてきた保護者に対して
「受容してない」
なんて言い放つあなたは、何様なんだ。と。
ユング派心理学者の河合隼雄さんがアイデンティティについて、こう語っている。
ある程度できたなと思うと、また次のものがやってくるというふうに、実は死ぬまで、あるいは死んでからも続くほどの一つの過程なんであって、ある点で確立するというものではない。
全生涯を覆って流れている問題ではないか。
障害の受容もまた然りではないだろうか。
ある程度受け入れたと思っても、やっぱり迷う。今のこと、過去のこと、将来のこと。。。そんな渦の中を当事者たちは生きているのではないだろうか。
少なくとも、わたしやわたしの母は、この25年間、そんな渦の中を、ぐるんぐるんとしているよ。
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