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皿うどんと焼きうどん。
忙しい時間帯がひと段落して、ふぅっと一息。上司が買ってきてくれたどら焼きを食べていると、同僚たちの声が聞こえてきた。
なんの話をしているのだろう。
キョロキョロとしていると、いつも雑談を手話にして教えてくれる同僚の一人と目があった。すると彼女はいつも通り、次の発言から手話をつけて話をしてくれる。どうやら会話はご飯の話。
***
皿うどんって、あの長崎のやつ?
あぁ、皿うどんって長崎のだったの?
え。なんかそんなイメージ。パリパリしていて美味しいよね。
いや、わたしが食べたいのはパリパリしているのじゃなくて普通のやつ。
え、それって焼きうどんじゃなくて?
***
この後上司も参入して議論を続けた結果、あんかけのかかったパリパリするのは「皿うどん」で、ソースで味付けするもちもちしたものが「焼きうどん」ということになって決着した。
職場のほとんどの人が手話を身につけている恵まれた環境。それでも音のない世界の住人はわたしだけ。でも、「できる」ことと「心地のよいコミュニケーション」は必ずしも一致するわけではないみたいで。
やっぱり、音の世界の住人にとって一番心地よいコミュニケーション手段は音声なんだと思う。だから、わたしが職場での雑談を全部わかろうとすることで誰かが自分の思っていることを出し切れない雑談は、きっとお互いにとって心地のよい空間にはならないのかもしれない、なんて感じている。それに雑談を全部見ようとしていたら作業の手が止まってしまって、わたし自身時間内に仕事が終わらないデメリットも出てきてしまう。
そんな時、喋りながら作業をすることができる音の世界の人が、ちょぴっと羨ましくなる。
雑談からみえる相手の意外なところとか、本音とかそんな情報って必要不可欠じゃないけれど知っていることで円滑に進む無コミュニケーションもまた存在するわけで。知らないと仕事ができないわけじゃないけれど、みんなが知っていてわたしだけ知らないことがあるのは、なんだか寂しい。でも、残部見ていたらわたし自身の仕事が終わらないし、周りの手も止めてしまう。
どの程度雑談に参加するかとか、どこからが雑談でどこからが仕事の話なのかって、なかなか難しい。仕事の話をしていたのに気づいたら雑談になることも、はたまたその逆も結構あると思うんだ。その判断を的確にするにはずっと気を張って周りを見ていないといけないし、そうすると目の前の仕事が進まない。
この課題はまだまだ終着点が見えない。
でもね、今日はそんな雑談を見ながらどうしても皿うどんが食べたくなって、夜ご飯に皿うどんを作ったよ。あんかけを乗せたパリッパリの皿うどん。
誰かと誰かの話がわかって、そこから影響を受けて自分の行動につながるのってなんだか面白いなぁなんて思いながらパリパリと食べた皿うどん。明日もぽっと余裕のある時間ができそうだから、またみんなの雑談をのぞいてみようかな。お互いが楽しめる塩梅を探しながら。
今日もお疲れ様でした。
おやすみなさい☺︎
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