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抜き足差し足どのくらい。
私は寝るけど、テレビの音はおっきくしても大丈夫よ。あと、そんなにこっそり歩かなくても大丈夫。過ごしやすいようにしていていいのよ。
そう言いながらまどろむ母に、あぁ彼女なりにわたしのきこえのことを受け入れようとしてくれていたんだなぁとちょっとびっくりした。
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小さい頃、よく母から
「テレビの音が大きいよ」
とか
「生活音が大きいのよ」
注意されていた。
そのたびに、聴覚障害のあるわたしは「なんでそんなふうに言われなきゃいけないんだろう。そもそもわたし、それくらい音ないときこえないのに」とへそを曲げていた。
今思えば、わたしの左耳は幼少期からちょっとずつ悪くなっていっていて、一気にきこえにくくなったのは実家を出てから。だから、母もわたしの見るテレビの音やたてる生活音の煩さが「聞こえにくさから生じているもの」と実感するのには、10年くらい必要だったんだと思う。
わたしも引っ越しをするうえで「自分のたてる生活音でご近所トラブルとかあったら困るな」と相談をしてきたし、母も一緒に祖父の家に帰省するときにわたしたちの様子を見て「さんまりもおじいちゃんも、補聴器組は自分の音に鈍感だからこういう音をたてがちなのね」と徐々に理解してくれたりするようになっていて。
それと同時に、わたしとしても自分の想像以上に自分の周りのテレビの音や生活音はうるさいんだろうなぁと意識してきたから。だから、「ひとり暮らし、自分がたてる音へのストレスが少なくて最高‼︎」と思って生きている。
でもね、こうやって言葉にしてもらってみてじんわりと
誰かと共に生活するということは、「これくらいなら大丈夫ね」みたいな目安をお互いに了解し合うことなのかもしれないな
なんてことを久しぶりに帰省した実家で考えながら、母が寝た後はAbemaでサッカーを夜な夜な観戦しました。言葉にするのほんっとに大事。
ちなみにiPhoneから音を出せば補聴器とBluetoothで繋がるので、補聴器から音漏れさえしていなければだいぶ静かに観戦していたはず。大丈夫と言われても、やっぱり気にしちゃうのよおう。
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