お空にひびけピリカピララ♪音のある生活は年中無休。
周りの人の声、街中を流れるBGM、緊急車両の鳴らすサイレン音……。わたしたちは、たくさんの「音」に囲まれて生活している。聴覚障害のあるわたしもそんな環境に生きるうちのひとりだ。補聴器を付けて、意識的に音を聴いているときは、という条件付きだけれども。
ここ最近の補聴技術は、目に見えて進歩している。ついにわたしの補聴器は、iPhoneとBluetooth接続ができるようになった。
おかげで、手話ができない聴こえる人たちとも気軽に zoom や LINE でつながることができるようになった。手話でのコミュニケーションももちろんわたしにとって必要な時間だけれども、わたしの周りには手話ができない人もたくさんいる。そして、わたしはその人たちとの音声でのやりとりもまた、好きだ。
もちろん彼らはわたしのきこえについて理解しようとしてくれる人が大半だから、口の形をはっきりと見えやすいように話しかけてくれたり、聴き取れないときには筆談や文字チャットでのやりとりをしたりと、繋がれる方法を充分に考えてくれる。
だから、わたしだって口の形も読み取ったり音声も使って発信したりと、自分にできる歩み寄りはできる限りしていきたい。そして、お互いが少しでもストレスフリーに繋がれる方法を日々模索していきたいと、心から思っている。
がしかし、いかせんわたしの聴力は年々低下している。「マンゴーは嫌いなんだよね」と言われたのに「マンゴー」しか聴き取れなくて、マンゴーをカゴに入れちゃうくらいには、聴き間違いが多い。
それでも、「それなりの努力と集中力」をはたらかせて、いろんな補聴技術を駆使すれば、聴こえる人たちの言うことの大半を聴き取ることができるんじゃないかと思っている。技術は、確実に音の世界と音のない世界を繋げてくれている。
ここ最近使い始めた補聴器が本当に優秀だ。とにかくこの補聴器は優秀で、頑張れば本当にいろんな音が聴こえるようになってしまったから、わたしもついつい頑張りすぎてしまっている。
今まで聴き取れなかった音を聴き取れることは、わたしの世界を確実に広げてくれていて。そのこと自体、本当に良かったなぁと思っている。「聴き取れない」とハナから諦めていたラジオだったり、動画の視聴だったりができるようになって本当に嬉しい。
でも、1日の終わりに補聴器を外すとどっと疲れてしまっていて、ここ最近はベッドの入った瞬間、泥のように眠っている。そして、一日中補聴器と補聴機器を繋いで研修を受け続けたら、案の定ヘロヘロで、noteを書くのもやっとだった。
あんまりにも世界が広がって、今の補聴器を使い始めてこの数ヶ月は、毎日がカーニバルのようだった。毎日が日曜日で、学校の中は遊園地で、やな宿題は全部ゴミ箱に捨てた。
まいにちまいにちが、超たのしい。いろんな音が、音声が聴き取れる。超たのしい。多分、不思議な力が湧いてきた。
でも所詮「それなりの努力と集中力」を働かせれば、の話だ。毎日がカーニバル、も夢のような世界だけれど、それはあまりにも騒々しい。あと、毎日が誕生日は、普通に疲れる。火山だって、大噴火する。
同じように、わたしもここ最近毎日がカーニバルのような聴こえすぎる世界に、若干疲れ始めているのが正直なところだ。多分これが生活になったら、倒れる。歯医者が毎日休みだったら、虫歯が痛くて楽しめないように。
だから、努力しすぎて疲れ果ててしまう前に、対処していかないといけない。最近、その対処のうちのひとつが「努力しすぎない」ことなのかもしれないな、なんて思っている。
例えば、
・頑張れば聴き取れるけれど、文字も使ってもらう。
・頑張れば聴き取れるけれど、周りに手話を覚えて使ってもらう機会を増やす。
もちろんわたし自身が全く努力をしないわけではない。使える補聴技術や音声は最大限に活かしていきたい。相手に、何かを犠牲にしてまで文字だったり手話をしてもらったりしたいわけではない。
それに、たまのカーニバルにはやっぱり参加したい。だって、参加できるだけの技術があるんだもん。わたしだって聴きたいし、そのための努力を惜しまない。あの手この手を使って聴き取るその数時間は、わたしにとってかけがえのない時間になる。
じゃあ、家族との時間だったり普段の職場でのコミュニケーションだったりの「生活」の場でもはしゃぎ続けていけるだろうか。
多分、聴こえるとか聴こえないに関係なく、家族との生活の中で適度な役割分担だったり価値観の歩みよりは、必要不可欠なんだろうなと思う。なのにこと「きこえ」に関するところでは、わたしが補聴器をつければ、わたしが補聴技術を駆使すればどうにかなるだろうと思いがちだ。
でも、「がんばらないと」が先走りすぎて、心地よさがなくなってしまっては、「生活」はしていけない。
職場でのコミュニケーションでも、聴こえにくいのはわたしだけなんだからどうにかして聴き取り続けなければいけないと思いすぎてしまう。でも、日々一緒に過ごしていく職場の仲間とだからこそ、心地よくコミュニケーションが続いていかないと、息切れしてしまう。
今この瞬間も、数時間後も、明日も、明後日も、1週間後も……生活が続いていく間柄だからこそ、「頑張ればできる」手段ではなく「心地よく生活できる」手段を一緒に考えていけたらいいんだろうな、なんて考えている。
毎日がカーニバルだったら、生活は成り立たない。たまにのカーニバルを楽しむには、日常が安心できる世界線で続いていくことが何よりも大事だろう。
補聴器を使って頑張ればできることが増えた今、カーニバルを楽しめるように、日々の生活をどう過ごしていきたいか、どんな方法がわたしにとって心地よいコミュニケーション手段になるのか、ちゃんと向き合っていかないといけないんだろうな、なんて考えている。
音のある生活は、年中無休だもんね。