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今がちょうどそのとき。
中学生か高校生の頃( どっちだか忘れたけど、とりあえず小倉に住んでいたはず )当時話題だった村上春樹の「ノルウェイの森」を読もうとした。
でも、結局、読めなかった。
文章がどうもしっくり頭に入ってこなくて。本を読むときにはだいたい頭の中で情景が映像化していくんだけれど、この時の「ノルウェイの森」は活字のままわたしの頭の中で流れていった。同じ経験を中学生の時にマーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」で経験したし大学院生の時には森見登美彦の「夜は短し歩けよ乙女」でも経験した。きっと、村上春樹の本を開くことはこの先ないんだろうなぁと思っていた。
誰に勧められても、いくらメディアで話題に取り上げられても、それからの10年近く手に取ろうともしなかった。
M2の冬の暑い中で、久しぶりに村上春樹の本を眺めた。
彼は「おもしろいよ」と言ったけれど、わたしはどうしても信じられなかった。活字しか出てこないイメージが先行して。
社会人になって久しぶりに読書をしたくなって、その時に勧められたのが
村上春樹と森見登美彦。
「あぁ、この人とは絶対にわかりあえない」
と思った。
通勤の電車ですることといえば読書だし、休日はソファに踏ん反り返って本を読むことが趣味だけれど、あの二人が書いたものだけは理解できないだろう、と思っていた。
でも、あまりにも暇で図書館で森見登美彦と村上春樹を一冊ずつ借りた。確か、森見登美彦の「有頂天家族」と村上春樹の「風の歌を聴け」。
買ったら絶対に後悔するだろう( 読了する自信がなかった )と思ってわざわざ図書館に出向いたのに、昔の感覚はどこに行ったのか、どちらもちゃんと映像が流れていった。
あの時の、ただ活字が黒い画面に白字で流れていくだけの感覚はどこにいったのだろうか、と不思議に思うほど、ちゃんと情景の映像が流れた。
くやしい。
また、勧めてきた彼はわたしの一歩先を歩いていた。また、わたしは彼を追いかけている。くやしすぎて、ちょぴっと、泣いた。
あれから何ヶ月かが過ぎて、村上春樹が訳したカポーティの「ティファニーで朝食を」と長編で有名な「1Q84」を読了したわけだけれども、ちゃんと情景の映像が流れている。
森見登美彦は読み終わった後に爽快感を、村上春樹は靄を残していく。わたしは、両者ともちゃんと読めている。
なんでだろう。
なにが変わったんだろう。
「1Q84」の青豆と天吾の会話じゃないけれども、もっと早く読めるようになればよかったのか、というとそういうわけでもなく、きっと、今がちょうどその時期だったんだと思う。
きっとこれからも、「今がちょうどその時期」はたくさん出てくると思う。
わたしはたまに、特に自分に余裕がない時に焦ってタイミングを急かそうとするけれど
今がちょうどその時期
をちゃんと上手に待てるようになりたい。
そんなことをしみじみと思ったのでした。
さて、次はなにを読もうかな。
(ちなみに、「風と共に去りぬ」も「ノルウェイの森」も「夜は短し歩けよ乙女」もまだ開く勇気はない。)
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