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じっくりコトコト学べる時間を与えることのできるオトナになりたいな。いや、ならないとな。

手話を使うのに、声を出すきこえない子に出会った。

わたしは、びっくりして母に報告した。
同じ頃、彼女は彼女のお母さんにこう報告した。

きこえないのに、手話ができなくてろう学校に通ったことのない子に出会った。

幼稚部から高等部卒業までろう学校で育った彼女と、幼稚園から高校卒業まで一般校で育ったわたし達は、大学の推薦入試会場ではじめて出会い、その後同級生として4年間を過ごした。

わたしにとって、はじめてのきこえない同級生。手話を教えてくれたのも彼女だったし、音のない世界へと誘い出してくれたり、講義の内容を聴き取れていないわたしのノートを見て情報保障を受けるよう勧めてくれたのも彼女だった。

そして、「音のない世界」といっても実に多様であることを教えてくれたのもまた彼女だった。

正直、わたしの聴力と語音の聴きとりレベル、発音の明瞭さは一般校でもなんとかやっていける程度だった。でも、彼女は「ろう学校」を選択することが妥当な聴力と語音の聴き取りレベルだった。

だからといって、わたしたちが音楽を嗜まないわけではなくて。ヘッドホンを最大音量にすれば、彼女は音が聞こえてきて歌詞カードを見ながら曲を追うことができたし、わたしは歌詞とリズムをある程度把握している曲であれば歌詞カードがなくても聴き取れる。
前提に歌詞を知っていることがあるから、誰かに勧めてもらった曲を嗜むことがほとんどだけれど、それでも音楽が好きだ。

こうやって、共通点を見つけたり似て非なるところを見つけたりしながら送った4年間。

卒業するとき、彼女は

わたしはやっぱり音のない世界が好き。音の世界は、合わないと思う。わたしは、きこえないから。

わたしは

どちらの世界も好き。でも、わたしは完全に聴こえる人にも完全に聴こえない人にもなれないと思う。きこえちゃうから。

そう言って、別れた。
彼女は日常的に手話が基盤となるコミュニティを、わたしは平日は手話の休日は口話のコミュニティを選んだ。

大学では、聴覚障害学生という括りで同じコミュニティにいたような気がするけれど、それでもやっぱり価値観は多様で。

音の世界の人たちが、聴こえるという共通点があるというだけでみんな仲良しだったら、世界はもっと平和だ。でも現実はそうでないように、音のない世界だって聴こえないという共通点があるからみんな仲良しこよし、というわけでもない。

この世界は、「きこえる」と「きこえない」以外にもたくさんの身体的特徴や価値観があるわけで。

みんなが仲良くしなきゃいけないわけではないけれど、ある部分で同じ項目で括ることができるからって全ての価値観が同じわけではない。

そんなことを、じっくりと学ぶことができた。そんな4年間だった。

月日は流れ、わたし達は職場の研修で再会した。同じ手話通訳を見るけれど、彼女は一番前で、わたしは手話通訳が見えるけど仲の良い同僚と隣同士に座れるギリギリの席に座った。

研修の合間の休憩時間、大学時代と同じように手話で語り合うわたしたちがそこにはいた。
彼女に教えてもらった手話が、今のわたしを支えていることを感謝しながら近況報告を。もちろん手話で。

お互いにある程度発音が明瞭な聴覚障害のある同僚になったわけだけれど、お互いにとって心地よいコミュニティや、お互いの価値観が似て非なるわけで。無理してお互いがすり寄せようとするのではなく、きこえないの中にもいろんな考え方をわかってもらえる世の中になるように上手に伝え合えるようになりたいね、そう笑いながら話した。

学生時代はたぶんお互いに

なんで同じきこえない人なのに、こんなにも違うことを言い出すんだろう。全然一緒じゃない。

とやきもきしていた。

じっくりコトコト4年間。

あそこでじっくりコトコトできたからこそ、今のわたしたちはお互いの考え方を尊重して受け入れられる関係になったのかもしれないなぁ、なんて思っている。

はじめて出会った音のない世界の同級生が彼女でよかった。あそこで、じっくりコトコトさせてくれる環境で学べてよかった。

はて、音のない世界に住む後輩たちにわたしたちはそのじっくりコトコトを与えられているだろうか。つい、先回りして教えてしまっていないだろうか。

そんなことを自問しながら、帰路についた。環境を用意してもらう立場から、環境を与える立場に移行しつつあるここ最近。うれしいような、ちょっぴり切ないような。

今日もお疲れ様でした。
おやすみなさい☺︎

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🌻さんまり🌻
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