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sanmariのひとりごと

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なんでもない日常の、でも、だれかにとって、ちょっと、特別なことたち。
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#エッセイ

だからわたしは、今日も本を読む。

わたしの通っていた小学校には図書室が2つあって、手前に絵本が足元にたくさん並ぶ低学年図書室、奥に児童書や辞典が高く積まれた高学年図書室があった。 カーペットが敷かれたその部屋で、次に読みたい本を手に取っては座り込んでパラパラとめくるのが大好きな小学生だった。 あれは確か、小1の冬くらいのこと。 ひらがなもカタカナも読めるようになった。漢字だってちょっぴり読めるぞ。なんだか自信がムクムクと湧いてきたわたしは、文字がいっぱいある本が読んでみたくなった。 それでも、お兄さん

【1st position】経験10年、ブランク15年のバレエの思い出。

数年前から、運動不足についての自覚はあった。 がしかし、いざ運動をしてみようにも、家の周りを走っては軽い肉離れを起こし、筋トレをやろうにもその基礎がなっていないからトレーニングできている感じはしないし、そもそも好き好んで運動なんかしたくない。一日中ベッドの上でダラダラと過ごしていたい。という始末でてんで進まず、電車やバスに乗れば動きに耐えられずに体がフラフラするし、座れば猫背、体力はなくてすぐに疲れる。 流石に日常生活を送っていく中で困ることがちょっとずつ増えてきたことに

先生の手に包まれた、わたしの祈りの手-クリスマスイブ-

あの頃のわたしにとって、祈ることは生活の一部だった。 母の「ちゃんと感謝できる子に育ってほしい」という教育方針というか願いにより、わたしは2つのミッション系の幼稚園に通った。 最初の幼稚園は、園長先生が『天使にラブソングを』に出てくるようなhabitを見に纏う、教会に併設されたカトリックの幼稚園。 毎日、朝・お弁当の前・帰りの会と手をパチンとあわせて「アーメン」と唱えることに慣れてきたというのに、年少の7月には父の仕事の都合で引っ越しをすることなってしまった。たった3ヶ

サンタクロースを信じるわたしと、贅沢な権利-アドベント3週目-

サンタクロースは、いるのだろうか。 この問いに惑い惑わされるこの時期は、サンタクロースを、それを信じる子どもたちを、それを疑う子どもたちを、ドキドキわくわくさせる。 わたしの通っていた小学校では、3年生頃に「サンタクロースはいるかいないか」というこの問いを題に、学級会が開かれた。確かあれは、「ぼくは、夜中にサンタクロースを見た。あれはお父さんだった。」という子もいれば「わたしだって、サンタクロースをみた。でもあれは、我が家の誰でもなかったし、翌日には英語で書かれた手紙だっ

ガブリエルに憧れた日々。憧れが崩れ去った日々。-アドベント2週目-

まだお昼過ぎだというのに空はすぐにでも夜を連れてくる準備を始めていて、街中のイルミネーションを眺めてもう一度空に視線を戻すともうすっかり夜になっている。思わず息を吐くとそれはもう白くて、これは本当に冬がやってきてしまったのだなと思わずぶるっと身震いする。 わたしの通っていたミッション系幼稚園では、この時期、毎年恒例の行事に向けて粛々と準備が始まる。それが、アドベント1週目のお話でも触れたクリスマスの降誕劇。 わたしの出身幼稚園では、 年少さん:その他大勢のお星様役。 年

お気に入りのあの場所で「ふふふ」と笑うわたしたちは、神様の、周りの大人たちからの愛情に、やさしく包み込まれていた。-アドベント1週目-

クリスマスを家族で、教会というファミリーと共に過ごした経験のある人は、この日本にどれだけいるのだろうか。 我が家はクリスチャンホーム(家族にキリスト教徒がいて物心つく前から教会に通っている人たち)どころか、三親等内にクリスチャンは一人もいないのだけれども、なぜか三姉妹全員がミッション系の幼稚園を出ている。それは母の「感謝できる人になってほしい。でも、感謝とは目に見えないものだから教えるのは難しい。そうだ!ミッション系の幼稚園に通えば、神様ありがとうと祈ることで多少理解するこ

あるいは、「祈るしかない」という希望について。

なす術がない そう悟った日から毎日、彼女は祈り続けていた。あの日々を、わたしは一生忘れないと思う。 *** 幼少期に過ごした東北の地が、休日の習い事の送迎も父親参観もいつもわたしたちを包み込んでくれた祖父母が大好きだったわたしは、わりとあっさりとその地の国立大学に進学した。もちろん、大好きな祖父母の家に下宿しながら。 祖母は、今でいうフリーランスの旅好きだった。ノートパソコンを持って新幹線や飛行機に乗り、日帰りで東京に出たり泊まり込みでヨーロッパに行ったりするような。

高校デビューも、わるくない。

当時わたしが住んでいた九州の片田舎では、公立高校に合格することが、人生最初で最大のミッションだった。そして、その公立高校入試で、わたしは見事に失敗した。 4月。わたしは紺色のスーツのような制服を見に纏うはずが、タータンチェックのスカートにブレザーを身に纏って、入学式の席についていた。 入試日。ここは滑り止めだと鷹を括ってぼんやりとバスに揺られていたら降りるバス停を間違えて試験開始5分前に走って校門をくぐり、休み時間には廊下で鬼ごっこをして怒られた苦い思い出しかない私立高校

毎日更新は、わたしがわたしを好きでいられる材料であって欲しい。

昨夜は、いつもの「テキスト」の表示を横目にエイヤっと「つぶやき」をクリックしてみた。 7月7日にnoteの#毎日更新 を再開して以来、一昨日までの22日間は毎日「テキスト」画面を開いて、その時々に感じていることを言葉にして綴っていた。話を脱線させたり自分で自分にツッコミを入れたりしながら、毎日2,000字と少しの言葉を綴っている。 ちなみにこの「テキスト」画面では、1記事につき100万字くらいの言葉を綴れるようになっているらしい。インタビューをしたりしてもらったりしたとき

七夕マジックが、消えない。

2021年7月7日。noteさんから「noteをはじめて2年だよ」とお祝いしてもらったのが嬉しくて、気付いたら2週間も経過していた。 自分自身でも「3日坊主で終わるだろう」と思っていたのに、気付いたら昨日は14日目で、このnoteは今月15記事目のnoteになろうとしている。こうやって細々と続いていることに、実は自分自身が一番びっくりしていたりする。 七夕が、2年ぶりにわたしを毎日更新の沼に引き摺り下ろしてくる。これは、七夕マジックなのか。でも、この沼は、結構好きだ。

文を書く才能はなくても、「書いたものを読んでもらうことが好きな子」にはなれる。

小学1年生の頃、学校の宿題に「日記」を書くことがあった。わたしの通っていた小学校は、毎年児童全員の作文を製本して文集を作るような、文を書くことに力を入れている学校だった。 そんな学校だったからだと思う。小学1年生の、ひらがなを全て習ったかどうかくらいのタイミングから、毎日「日記」を書いて担任の先生に提出することが当たり前になっていた。その日記帳には、毎日ひと言コメントが書かれていた。 「〇〇ちゃんと、公園であそんだよ」と書けば「楽しく遊べてよかったですね」、「妹と、ケンカ

iPhoneは「アイフォーン」で、「アイホン」でも「アイフォン」でもないらしい。

iPhoneの画面がバッキバキになった姿は、自分のものではないにしろ一度は見たことがあるだろう。 わたしが最後に見たのは、多分大学生の頃だったと思う。当時、わたしの周りの大学生は、「一人に一回は経験したことがあるんじゃないか」と思うくらい、常に誰かしらのiPhoneの画面がバッキバキにひび割れていた。そして、誰もが「お金がないから」とか「親に言いにくいから」とバッキバキのiPhoneを使い続けていた。 わたしもそれなりにiPhoneを落っことすタイプの人間なのだけれども、

気付いたら毎日更新を再開してゆるっと一週間経っていたので、この一週間のnoteを振り返ってみた。

先週の、ちょうど水曜日のこと。 ここ最近しんどい日が続いているのに、今日も残業してしまった。こんなに疲れてるんだもん。明日に疲れを引きずっちゃうんじゃないだろうか。 そんなことを考えながら地下鉄に乗ってiPhoneを開くと、noteから通知がきていた。 noteをはじめて2周年記念! その記念日が嬉しくて、「記念日がたくさんあるカップルは、続きやすいらしい。」なんてnoteを書いたのがはじまり。今日までの一週間、毎日noteを更新している。ちなみに、この記事は #no

高嶺の花を手にした夕暮れ

女の子に生まれたからには、花束をプレゼントされたいと思う。慣れ親しんだいとおしさ右手に添えたいときには、ひまわりの花束を。特別な日には、芍薬を。 *** 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」なんて例えられる、華やかさと芳しさを揃えもつこの花は、わたしの恋愛のバイブル『GOSSIP GIRL』で知って以来の憧れだった。 芍薬の蕾は、毎年5月の半ばからお花屋さんに並ぶ。けれども、一本1,000円近くすることもあるその花は、憧れすぎて手に入れられない存在だった。 今