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sanmariのひとりごと

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なんでもない日常の、でも、だれかにとって、ちょっと、特別なことたち。
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#多様性を考える

まずはその誰かを、抱きしめられる世界に生きていたい。

昨日、こんなことをつぶやいた。 実はここ最近、諸々あって自分の投稿をするとき以外はあまりSNSを見ていなくて。だから、例の藤沢駅の動画も岸田奈美さんのnoteを通して知った。 障害があろうとなかろうと、好奇心旺盛な子どもとのお出かけは命懸けだと思う。毎日、朝元気に家を出たときと同じように、病気も怪我もなくまた家に帰ってくる。それだけで、もう充分すぎる。 大人の手を離すことが 車道に飛び出すことが 赤信号を渡ることが 線路に降りることが ぜんぶぜんぶ危険だということを、彼

嫉妬とか 忖度とかじゃなく 純粋に 会いたかったと 言える強さよ。

SNSとかオンラインコミュニティとか、そういうのが当たり前になってきた今日この頃【会ったことないけど仲良し】みたいな人が一定数いる。 一昔前は「ネットでの出会いなんて、よく分からないし危険!」だと多くの人が信じて疑わなかっただろう。でも、Yahoo!ブログだとか前略だとかモバゲーだとかmixiだとか……あと、TwitterやInstagramやFacebook。ずっとずっとSNSは、わたしたちの生活の傍にあって。 今では、日常のお友達、職場の人たち、そしてサードプレイス的

そう遠くない未来に、当たり前になって欲しいサービスを見つけたので。

あくびをする、おならをする、お腹がなる…… 生活をしていく中で、避けては通れない生理現象というものはどれも「しょうがない」で済まされると言うのに。こと「生理」については、どこか隠したくなるようなそんな気がする。 小学校高学年でやってきてから、不規則ながらもだいたい月に一回それは必ずやってきて。あくびやおならには名前がついているのに、生理はそのまま生理。 なんだか避けたいときには「女の子」とか「お腹が痛くなるやつ」と言ってしまうけれども、要するにそれは生理だ。 用を足し

蛇口の捻りが甘かったときのお水って、どんな音をしてこぼれているんだろう。

大なり小なり、人には「許容範囲」というものが存在するだろう。 例えば、湯船にお湯をはる頻度だったり、エアコンの設定温度だったり、寝具を洗うタイミングだったり。 先日、彼の家で朝方にトイレをしたら手洗い場の水が出なかった。しょうがないから台所で手を洗ってもう一度布団に入って、彼が起きてから「ねぇ。トイレの手洗い場、水が出ないんだけど」と伝えた。 すると「あぁ。昨夜、僕が強く締めたんだよね。さんまりちゃん、水出しっぱなしでお風呂に入っちゃったんだもん。だから、えいって!」と

次は「そろそろお誕生日だし」って誘うんだ。

年の瀬だから 12月は、そう言い訳すれば大好きな人たちにとことん会えるので本当に楽しい季節だなぁと思う。クリスマスのウキウキ感が過ぎ去って、世の中がゆっくり今年の終わりに向けてペースダウンしていくこの空気感が、毎年なんともいえなく好きでたまらない。 普段、 #音の世界と音のない世界の狭間で それぞれ生きるわたしたちも、年末はこっそり待ち合わせて、夜の街を音のない口形と手話でわいわいと練り歩く。 わたしたちはともに、普段の生活では主に補聴器を活用して生活していて。四六時中

動かざること山の如し。

トーキョーに来るときは、いつでもお相手するね。 と約束している友達が、この冬も遊びに来てくれたのでホテルステイをしに、OMO5東京大塚by星野リゾートへお邪魔してきた。 お部屋は「やぐらルーム」という秘密基地のような空間。おしゃべりスペースと睡眠スペースが上と下で分かれているので、夜な夜な盛り上がるおしゃべりタイムは、寝具が汚れる心配をせずにちょっとしたモノを摘めて最高。 バストイレが別スペースかつ浴室には洗い場と浴槽がちゃんとあるので、お風呂もゆっくり過ごせて、「お風

何をするか、誰と共有したいか、共有したいと思ってくれる人がいるということ。

同じ本を何度も読む とか 同じ映画を何度も見る とか 結末を知ってても、それでも同じものをみてしまうときがある。たとえば、数年の月日が流れてストーリーが朧げになっているときとか、お勧めしたい誰かと一緒にみたいときとか。 この週末最初の夜は、W杯の決勝戦をフルで観戦して、もうひとつの夜はネットドラマを一気見して、そのテンションで歌を歌った。 W杯の決勝当日は友達とLINEでお喋りしながら自宅で一人観戦をしていたのだけれども。どうやら彼は仕事が忙しかったようで、観戦できなか

「たいしたことないんだけどね」こそ「たいしたことある」のよ。

クリスマスイヴのお昼。家の前の急な坂道をやっと下ったその先で目に入ったのが、ご近所のギョーザ屋さん。 本当はショッピングモールに行く予定だったのだけれども、2年前にお引越しをしたときからずっと気になっていたそのお店がちょうど開いていたので、入ってみることにした。 店内に入ると、彼は迷わずテーブル席を選んでくれる。わたしとの会話は特に外では手話や口の読み取りが中心になるから、カウンター席よりも向かい合わせの方が都合が良い。 メニューはシンプルに ・ライス ・半ライス ・ギ

W杯マジックにかけられて

スポーツとかお笑いというのは、ライブで見るから楽しいものであって。ライブの展開の早いこれらと、字幕はどうも相性が合わない。解説と実況が声を重ねてきたり、字幕の表示を待っている間に試合展開が急に変わっていたりするから特に。 だから、前回のW杯予選を見ていたときは「あぁ、サッカーは解説してくれる人が横にいないと楽しくないな」とどこか諦めモードで、解説してくれるサッカー好きと一緒の夜しか観戦しなかった。 ところがどっこい、この4年間で補聴器とiPhoneの音声がBluetoot

#音の世界と音のない世界の狭間で にこだわる理由

わたしは、ことにお耳に関して、周りに恵まれすぎている。 その昔、聴力が落ち始めた時期には聴覚障害のある友達がそばにいてくれて、手話コミュニティに入れてくれて、講義には情報保障がついて、周りの友達が音声情報を文字や手話で見せてくれて、相性の良い認定補聴器技師さんに出会うことができた。 だから「耳が聴こえにくいんです」と言うだけで、周りの人たちがなんとか守ってくれるだろうと過信しているところが、あった。実際、どこに行っても周りがちゃんと守ってくれている。 そんな温室でぬくぬ

抜き足差し足どのくらい。

そう言いながらまどろむ母に、あぁ彼女なりにわたしのきこえのことを受け入れようとしてくれていたんだなぁとちょっとびっくりした。 小さい頃、よく母から 「テレビの音が大きいよ」 とか 「生活音が大きいのよ」 注意されていた。 そのたびに、聴覚障害のあるわたしは「なんでそんなふうに言われなきゃいけないんだろう。そもそもわたし、それくらい音ないときこえないのに」とへそを曲げていた。 今思えば、わたしの左耳は幼少期からちょっとずつ悪くなっていっていて、一気にきこえにくくなった