近衞兄弟からの葉書~霞城館「三木露風と交流のあった人々」展より~
霞城館・矢野勘治記念館企画展「三木露風と交流のあった人々」展に行ってきました!
令和6年7月13日(土)~9月1日(日)まで霞城館で開催されていた三木露風没後60年の企画展、「三木露風と交流のあった人々」展に行ってきました!
霞城館・矢野勘治記念館HP:https://www.kajoukan.jp/
この企画展ではあくまでも、露風に宛てられた葉書のみが展示されており、これを受け取った露風の心情などが分かるわけではありませんでしたが、逆にそうした展示の方法が、「他者からの目」を通して露風の人柄や人望をみるということにとても効果的で、そんなに詳しくない私でも非常に興味深く展示を拝見することができました。
そもそも、私がなぜこの企画展をみにたつの市まで足を運んだかというと、X上で「山田耕筰や近衛秀麿の露風宛葉書が展示されている」という情報を得たためです。
ありがとうインターネット。
そして「秀麿の葉書があるのなら、もしかして近衛直麿からの葉書もある…?」と思っていたのですが、この予想は大当たり!
秀麿と一緒に、直麿の葉書も展示されていました。
この企画展、おそらく目玉は山田耕筰→露風宛の葉書だとは思うのですが、そちらは別の機会に、今回は近衛兄弟からの葉書のみを軽く紹介させていただきたいと思います。
(霞城館にあったノートに、山田耕筰からの葉書が面白かった!という感想があって笑ってしまいました。ちなみに、山田耕筰はまじで三木露風のことが好きです。)
※受付で確認したところ、展示品はすべて撮影OKとのことでした。
※改めて霞城館様に問い合わせたところ「人物が写っていなければネットへの掲載も大丈夫」とのご返答をいただきました。
※ただ、やっぱり一部とはいえ展示物を鮮明に写したものをネットに出し続けるのも微妙なので、後ほど一部写真を削除・修正する予定です。
近衛秀麿からの葉書
まずこちら、1923年7月にドイツのシャンダウ村から露風に宛てて出された葉書。
近衛秀麿は1923年2月18日から翌年6月25日までベルリンに遊学(これが秀麿の第一回目の渡欧)しており、その最中に出されたもののようです。
この葉書内で秀麿は「今迄の処、悲しむ可き事には、欧洲の沈滞の極に達して居る様に見えます。途上訪れたエジプトの大ピラミッドから受けた以上の印象はまだ今の欧洲の芸術からは受けません。」という所感を記していますが、彼はこの葉書以外でも、この渡欧に際して随所で欧州の音楽界(主にパリ)に対して辛口な感想を述べています。
少し紹介すると、まず『詩と音楽』6月号(アルス、1923年6月)に掲載された、上記の葉書とほぼ同時期に書かれたと思われる秀麿→山田耕筰宛の手紙から。
また、当時見聞したことを綴った『シエーネベルグ日記』(銀座書院、1930年)でも同様の感想が述べられており、当時の秀麿が抱いた感情が良くわかります。
こちらはこの企画展では珍しい、戦後の1955年に出された葉書です。
文中で示されているように、秀麿は「赤穂の校歌」、たつの市立小宅小学校や赤穂市立赤穂小学校の校歌などを作曲(作詞はいずれも三木露風)しているため、たつの市と関連深いこの葉書が紹介されたのでしょう。
近衛直麿からの葉書
もともと秀麿の葉書が展示されているのは把握していたので、秀麿がいるなら…と期待していたら、思っていたよりもしっかりと直麿の葉書が展示されていました。
めちゃくちゃ嬉しい~~~!!!!!!!!
近衛直麿は秀麿の2歳下の弟で、暁星中学校在学中(途中退学)の1916年10月頃より三木露風に師事し、詩作に励んでいました。
直麿が生前出した詩集『和絃』の序文も師匠である三木露風が執筆しています。
『近衛直麿追悼録』巻末の略年譜をみてみると、「大正10年(1921年)3月 青森県を旅行しパストラル詩社の歓迎会に臨む」とあるので、この青森滞在の際に出された葉書だと推測できます。
余談ですが、直麿は一時期叔父である津軽英磨に預けられていた時期があり(直麿は兄弟の中で唯一生涯無位無爵の人ではありましたが、もともとは青森の名士である津軽伯爵家に養子に行く予定でした)、その関係もあって青森県には縁がありました。
そんな背景もあり、彼は「熱烈な歓迎」を受けたのでしょう。
こちらの葉書は消印がほぼ消えており、出された年月が不明となっていますが、順天堂病院の三木露風に宛てて出されているため、1920年11月前後に書かれたものではないでしょうか。
また、直麿は『牧神』の編集を二宮典美と共に引き受けていたという回想が、安倍宙之介によってなされているため、葉書中に登場する「会」は「牧神会」のことを指していると思われます(安倍宙之介『三木露風研究』(木犀書房、1964年)p.115)。
次に紹介する絵葉書もですが、こうやってみると直麿は意外と山田耕筰と個人的な親交があったんだな…という気付きが得られました(正直これは少し意外でしたね)。
あとこの葉書、当時の学習院のグッズか何か…?
知ってる方がいたらご教示ください。
近衛兄弟からの葉書
そして今回私が一番みれて良かった!と思った葉書がこちら。
近衛兄弟から三木露風に宛てて出された葉書です。
この葉書、読んでみると「兄申す」「和絃曰す」「弟申す」と書かれています。
「和絃」とは直麿が1920年5月に敬文館から出版した詩集のタイトルであり、この葉書内の「和絃」は直麿のことを指すと思って間違いなさそうです。
そしてこの「和絃」を中心に、「兄申す」「弟申す」と書かれているため、この葉書は兄秀麿だけではなく、末弟の忠麿からも一緒に出されており、文中にある「不肖の三人兄弟」というのは秀麿・直麿・忠麿を指していることが分かります。
この3人はよく連れ立って旅行していたそうなので、この絵葉書が出された時もそうだったのでしょう。
土方与志の葉書から見る「近衛秀麿の愛称」
ここからは三木露風とは関係ない余談となります。
今回の企画展で、土方与志から露風に宛てた葉書が展示されていました。
土方与志は大正~昭和にかけて活躍した演出家であり、学習院高等科在学中に近衛秀麿・三島通陽・実吉捷郎らと「友達座」を結成し、山田耕筰作曲のもとで土方演出のデビュー作となる「タンタジールの死」を好演しました。
この「友達座」は三島通陽・土方与志を中心に、大正期における「華族におけるデモクラシーの影響」という観点から、その評価の一端がなされています。
ただ、ここで個人的に注目したいのはそんな小難しい話ではなく、文中に登場する土方→秀麿への「近ちゃん」という愛称です。
実は山田耕筰も秀麿のことを「お近」と手紙内で表記していたことがあり(あくまで手紙内でのことなので、実際そう呼んでいたかどうかは不明)、正直この呼び方は山田と秀麿の仲を考えたときにちょっとだけ違和感がありました。
というのもこの二人、一応師弟関係ではあるし年齢も離れてるし、山田個人が「お近」という愛称を付けるには少しフランクすぎるのではないかなと…。
ただ、今回土方与志の葉書をみると、恐らく秀麿はもともと「友達座」他学友から「近」「近ちゃん」と呼ばれていて、そこから土方与志らと親交のあった山田耕筰も秀麿のことを、彼らと同じように「近」という愛称で呼ぶことがあった、と考えれば納得がいきます。
山田耕筰の書簡をみたときから何となく感じていた謎が解けて、個人的にはめちゃくちゃ嬉しかったです。
たつの市、最高!!!
たつの市、今回初めて訪れたのですが、景観保存がしっかりとされていて、街を歩くだけでも満足度が高く、とっても良い所でした!
(この時途中でカメラのレンズが故障してしまい、街並みの写真が全然ないのが心残りだったり…。)
ただ、行った日があまりにも暑くて龍野城などには行き損ねてしまったので、もう少し涼しくなってから推し活散歩リベンジしたいと思います。
そして今回訪れた霞城館は常設展の展示も面白く、三木露風だけではなくたつの市にゆかりのある人物たちのことが良く知れる良い資料館でした。
また近いうちに、たつの市再チャレンジしたいです!