サウナに入りながら考えてたこと
まず、表題のサウナについて紹介していこうと思う。
なぜなら素人の文章を最後まで読む人間はそう多くないからだ。
私の駄文を読むより良いサウナを知ってほしいという思いもある。
件のサウナは、「サウナ鷹の湯」という。
鷹の湯のサウナは
・ドライサウナ
・薬草スチームサウナ
・高温高湿サウナ
・バレルサウナ
の4種類があるのだが、私は主に「ドライサウナ」と「バレルサウナ」を利用している。なので、その二つのみ説明させていただく。
私は、一度目のサイクルは「ドライサウナ」で、二度目、三度目は「バレルサウナ」という風に利用している。
「ドライサウナ」は表示温度は高温だが、中々居心地が良い。檜の香も良い働きをしている。テレビが常設されているので、瞑想など静かに楽しみたい方は後述の「バレルサウナ」がおすすめだ。そして高温なため一段目に座って「ぬるいなぁ…」と不完全燃焼になることがあまりない。
そして「バレルサウナ」だが、12分間隔でアロマ水によるオートロウリュが、また別の12分間隔で30秒間熱風が流れる。こちらの熱風がブシロードもびっくりなほどに熱い。だが耐えられないほどではないため、刺激を求めてくるサウナ好きが後を絶たない。個人的には、入り口の張り紙が物々しくて好き。
個人的には、熱風を浴びるのももちろん良いのだが、送風が終わった後の、熱風が循環したサウナ室の状態が一番心地よいと感じる。終わった後は一人用の檜水風呂に飛び込み、じっくり身体を冷やせるのもポイントが高い。休憩椅子はインフィニティチェア(もどき)をはじめとして様々な形があるので、お好みの椅子に座ると良いだろう。
さて、本題なのか副題なのかよくわからなくなってきたが、最近、自身を取り巻く状況が大きく変わってしまった。
ざっくりと話すと、色々あって精神を病んでしまった。
病んでしまったというのは誇張表現ではなく、精神系の病名を心療内科の医師よりしっかりと宣告されている状態だ。
なので、現在治療がてらかつての住まいである沼津市に遊びに来ている。だいたい1週間ほど滞在しようと思っている。
沼津は良い街だ。結局は離れることになってしまったが、余計なことに首を突っ込みさえしなければ、心を休めるのに適している土地と言える。
なぜ自分が精神を病んでしまったかということを細かく語るつもりはない。なぜなら自分でもよく分かっていないからだ。
よく分かっていないのは、わかりやすい一つの大きな要因があった、というわけでないからだ。おそらく、様々な事案による複合的な精神抑圧によるものだろうと考えている。
なので、今は「無理をしない」ということを心がけて生活をしている。何についても「無理はしない」。いずれ病が治り、社会復帰を果たすことができたら、その後は無理をしてでも行動しなければならない時は来るだろうが、そういうことも今は考えない。少なくとも病が治るまでは、徹底的に「無理はしない」。こうやって少しずつ、少しずつ自分の心を軽くしていこうと思っている。
そして、こうすることで、見えてきたものがある。それは私の生活が思ったよりも「無理」で構築されていたことだ。なんというか、無用かつ過剰な気遣いのようなものが多かったように思える。それに加えて、自分の中にぼんやりとあった「普通」の基準を、満たせないことに自責を重ね、自己嫌悪に陥っていた。そしてその状態が「人生」のスタンダードだった。
そんなぼんやりとした「普通」になろうとするのではなく、自分は自分を成長させていくべきなのだと思う。その「成長」とは全員にとって同じ形をしているわけではなく、人に適した成長の形がある。そしてそれらは、しばしば他人から諭されることで、自分としても頭では理解しているつもりだった。しかし、人それぞれ違いがあるといっても、「普通」に少しスパイスを振った程度の違いしかないものだと考えていた。だが、どうやら、そういうわけでもないらしい。
たとえば私は、人よりできないことが多い。そのような自分を「受け入れる・認める」ことが私にとっての「成長」だった。だというのに私は、できないことをできるようにならない自分自身の不甲斐なさに自責の念を抱き、それが重ねって、今こういったことになってしまっているのではないかと思う。
自身の人生へのアプローチを少しずつ変えていこうと思う。
たとえば、「このような葛藤は思春期のうちに済ませておくものなのだろう、普通」などと今までの自分なら考えるものだが、そういうことも止めようと思う。それが「普通」なのかもよくわからないし、「普通」だとしても、自身のノロマな成長速度を受け入れる。
そのようなことを、鷹の湯のバレルサウナの熱気を浴びながら考えていた。
今は右手の甲が熱い。