真実は贅沢品である
兵庫県知事選が波乱のうちに終わった。
いや、波乱でもないか。投票期日が迫るにつれ、ネット上では前職の斎藤元彦氏が急速に支持を集めつつある状況が報じられていた。得票予想で先行していた対立候補の稲村前尼崎市長が蓋を開けてみれば呆気なく敗れてしまったというのは、接戦が予想されながらトランプ氏が大勝したアメリカ大統領選挙の展開を想起させる。
2つの選挙戦に共通するのは、勝利した陣営がSNSでの発信において圧倒的な優位に立っていたという点だ。大衆による情報発信で成立するソーシャルメディアでの支持を誇示することで自分こそが真に市民の声を代表する存在であると位置付ける一方、対立候補を既得権益層の代表として印象付ける。その戦略は少なからぬ人々の投票行動に影響を与えただろう。
もっとも、敗北した側にしてもやっていることは大して変わらない。対立候補を批判したり資質を問うたりすることに腐心するあまり、自身が市民のために何が出来るのか明確な説得力をもって伝えられなかった面がある。改革者や異端者のイメージがSNSと好相性である点は差し引いて考える必要もあるだろうけど、現代においてはSNS活用の巧拙が選挙戦を大きく左右するのは間違いない。
ところで、今回の兵庫県知事選は県外に住む者からすると、何とも釈然としない、霧中にあるかのごとき様相を呈していた。斎藤氏に関しても稲村氏に関しても真偽不明の情報が言論空間を飛び交い、何が真実なのかを見極めることが容易ではない状況で選挙は行われた。斎藤氏を支持するSNS上の声は「オールドメディアが報じない真実が明かされ、人々を動かした」と意気軒昂であるものの、当初斎藤氏にまつわる数々の疑惑を拡散し、大々的に批判を展開したのもまたSNSである。パワハラ告発文書の存在と職員の自死が報じられた直後にネット上を席巻した類のコメントと、選挙戦が本格化して以降に見られたそれとの間には劇的な変貌が見て取れる。その変わりようは驚くべきものだ。
こうした様変わりを目にした多くの人は、真実を知るのが難しくなったとの思いを新たにしていることだろう。誰の言っていることが正しいのか、様々な情報を調べて比較し、最後には自分で判断を下さなければならない。その一連の作業に負担や煩わしさを感じた人も多かったはずだ。時間や教養がなければ、もはや俺達は真実にたどり着けない。
いや、時間や教養があったとしても真実にたどり着けるかどうかはわからない。探せば探すほど、次から次へと様々な情報や見解が突きつけられ、事の真偽を判断するのはますます困難になる。また、議論の争点には未だ答えが明らかになっていないものも少なくない。新型コロナのリスクやワクチンの安全性評価に関する問題などは、専門的な知識を持つ科学者の間ですら見解が分かれるのだ。論文が書けるほどの知識を持たない人間が、専門家の説明に健全な疑義を呈することは難しい。それにもかかわらず真摯に真贋を見極めようとすれば、俺達の頭の中は理解できないことで埋め尽くされていってしまう。
そう考えると、俺達が行動したり何かを判断したりするに際して真実を知っておきたいと願うのは、実はたいそう贅沢な望みなのだと思えてくる。
真実を知ることの困難さは今に始まったことじゃない。それは遥か昔からそうだった。読み書きの能力が一部の人だけのものであった時代、文盲の人々は知識人が口述する教えを真実として受け取るよりほかなかった。現代においても、つい最近まで情報は新聞やテレビなどのマス・メディアが人々に供給するものであり、好むと好まざるとにかかわらず、あるいは信じるかどうかは別にして、一般市民がその他の経路から情報を手に入れるのは難しかった。メディアが知らせない情報を知ろうと思えば、自らの足で取材や調査を行ったり、書籍の購入やセミナー参加のために費用を払ったりしなければならなかった。その意味で、良質な情報へのアクセスは実のところ金と時間がある人に限られていたのだ。
そこで人々は考える。そうした情報の取捨選択に費やされる金や時間を節約するためには、信頼の置ける発信者から情報を受け取るのが最善であると。実のところその信頼性を実証するのは難しい。ゆえに、俺達はそこで述べられていることが真実であると当面信じることにする。ちょうど、学校の勉強において多くの人が教科書内の記述や問題集の解答を疑いはしないように。
見方を変えれば、人々が情報収集に際して支払う対価にはそうした信頼性への保証も反映されているのだと言える。どこの馬の骨が書いたかわからない書籍と、その分野の専門家が著述しきちんと校正された書籍とでは、同じ値段なら前者をわざわざ買おうと思えないのはそういうことだ。
さて、インターネットの発達とSNSの隆盛は、俺達の情報取得コストを劇的に引き下げた。以前なら大学で講義を受けたり書籍を購入したりしなければ入手できなかった情報がWeb動画では無料で配信されている。大学の学位ですら、現実の大学に通うのと比べれば格安の料金で取得できる時代だ。
それは逆に言えば、情報の発信者が受け手に対して負う責任が矮小化され得ることを意味する。俺自身も種々の雑感をnoteに気軽に記しているわけだが、これが有料記事や書籍の原稿を書かねばならないとなれば、考えの整合性がとれているか、把握しているつもりの情報に誤りはないかなどを己に問いつつ、検証により多くの時間や労力を費やして情報を発信することになるだろう。今これだけ多くの人が好きなことを気楽に書けるのは、情報を取捨選択する責任を読者に負ってもらっているからにほかならない。こうした現状に鑑みれば、ネット上に溢れる情報はまさに玉石混淆であり、しかも石の割合が圧倒的に多くなるのが必然だと考えられよう。
ただ、それは決して悪いことばかりじゃない。
マス・メディアが信頼されていた時代には、情報の受け手の多くはメディアの語る事柄を真実として受け取るよりほかなかった。情報を寡占する存在に対して人々が抱く畏怖や信頼は、その情報が嘘に塗れているかもしれないという猜疑から目を背けさせる。
けれども、Web空間における言論の氾濫は個々の情報源が持つ価値を低下させ、マス・メディアの地位の相対化に寄与することになった。簡単に言えば、人々が「新聞やテレビは嘘を言っているのかもしれない」と疑えるようになったということだ。
この可能性に気付くことは重要だ。太平洋戦争中は政府と結託したマス・メディアが国民にとって不都合な現実を隠蔽しつつ戦意の発揚を図ったことにより、日本が避けられたかもしれない開戦や戦局の悪化へと歩を進める結果となった。中国やロシアでは今だに政府が報道を統制することにより、独裁権力をより強固なものにしようとしている。
もちろん、現代のマス・メディアの多くは歴史への反省に鑑み、真実に即した情報をより客観的に報道しようと努力はしているだろう。新聞社やテレビ局はそのために記者を抱え、彼らは自ら一次資料にあたったり現場や当事者への取材を行ったりすることで情報の正確性を高めようとする。その矜持は少なくとも、Web上で見聞した二次、三次情報のみに依拠して「真実」を語ろうとする個人の発信者の及ぶところではない。
けれども、だからといってマス・メディアが完全に真実のみを語っているという保証にはならない。取材が常に真実に迫れるとは限らない。あるいは、取材して得られた情報が権力、あるいは権力と結託した上層部によって握り潰されることも起こり得る。仮に制作者が真実を報道しようという志を持っていたとしても、報道のための編集過程に主観やバイアスが入り込むことを完全に防ぐのは難しい。それゆえに、同じ出来事に対してメディアごとに異なる切り口が生まれ、その差異がメディアの個性を生む。
こうした話は既にメディア論においては語り尽くされてきたものだ。ただ、俺達は頭ではそうと理解していても、よほど疑り深い人でもない限り、他者の言っていることはまず真実であろうという前提から出発してしまう。「天気予報では降水確率0%と言っているが、もしかするとそれは偽りで雨が降るかもしれない」とか、「部長は明日の会議が15時からだと言っていたが、それは自分を会議に遅刻させて貶めるための嘘で、本当は14時から始まるのかもしれない」などと考えながら生活している人は、いたとしてもごく少数だろう。
それは、信じてしまう方が合理的であるからにほかならない。もちろん、他者が嘘を言っている可能性は常に存在する。けれども、その可能性が無視できるくらい小さかったり、仮に嘘であったとしても騙されることで被る害が取るに足らない程度のものであったりすれば、信じることで得られる便益は疑うことで生じるコストや機会の逸失を上回るだろうと期待される。ゆえに、信じやすいことは一般に生存にとって有利な性質であるとも言えよう。
ただ、信じることがもたらすリスクが常に正しく評価できるとは限らない。情報源の信頼性は自分が想定しているよりも実は低いかもしれないし、騙されることで被る損失だって過小評価されているかもしれない。俺達は他者の言動を観察したり、信じることで得られた便益と損失を勘定したりしながら、リスク評価の補正を絶えず試みなければならない。昨今のマス・メディアに対する信頼の揺らぎは、まさにこの補正を俺達に要求しているのだと言えるだろう。
もっとも、それは健全ではあるものの、社会で暮らす俺達にとって歓迎すべきことかどうかはまた別の問題だ。
情報への信頼は生存のためのコストを低減してくれる。自分で見聞きしたことしか信じられないのであれば、俺達の保持する世界観や知識は己の身一つで行動できる範囲に留まってしまう。人間は自身の体験や知識を共有し、次代へと引き継ぐことを通じて集合知を形成してきた。その過程にはもちろん従来の常識の転換という大きな出来事も生じるのだけど、集団的学習の営みは概して他者への信頼に貫かれていると言えよう。
Web空間における情報の氾濫は、確かに健全な懐疑へと人々の目を導いた。けれども、それは同時に情報の価値を低下させることで真実にインフレーションをもたらし、俺達の生存コストを爆発的に引き上げる事象でもあり得る。
この現実への対処は難しい。たとえば、不健康な添加物やジャンクフードに塗れた食生活を改め、良質な食材を用いて手間暇かけた調理を心がけようとすれば、それは確かに健康的だが当然ながらコストが嵩む。情報についても同様で、真偽のほどが疑わしいジャンク情報を避け、純度の高い真正な情報に迫ろうとすればするほど、その入手や行動の判断に時間がかかるようになってしまう。食事の場合、お金や時間のない人はたとえ不健康であるとわかっていても、安価で加工度の高い食品に依存せざるを得ない。情報もまた同じで、よほど生活や時間に余裕のある人でもない限り、ジャンクな情報を当座の判断材料として飲み込まなければならない。
今後懸念されるのはジャンク情報の氾濫がもたらす社会への影響だろう。真実はもはや誰もが簡単にアクセスできるものではない、贅沢品になってしまった。それと軌を一にして手軽に入手できる情報が溢れ、人々の知識欲や関心を満たす。かつては情報を手に入れようと思ったらマス・メディアに頼るほかなかったのが、今では誰もが雑多な発信源に接し、「真実」を謳う情報に触れることができる。
ジャンク情報の危うさはその信頼性よりもむしろ中毒性にあると言っていいだろう。ジャンクフードだって、健康に悪いと理解した上で週に1回楽しむ程度ならそう問題にならない。けれども、油脂や塩分をふんだんに用いた味付けは人間が持つ動物的な快楽に働きかけ、人々に強度の高い刺激を与え続ける。そして、いわゆる「やめられない、止まらない」現象が引き起こされる。また、そうした味付けの濃さや咀嚼のしやすさに慣れてしまうと、複雑で微妙な味わいの皿では物足りなくなってくる。
ジャンク情報もまた同じだ。インプレッション数やフォロワー数を増やしたい発信者は、情報に多少の誇張があったとしても白黒のはっきりした、主張の強い言葉を好む。さも自分だけが真実を知っているかのような顔で、手っ取り早く「真実を知る者」としてのステータスを獲得したい情報の受け手を呼び集める。そうした人々にとって、物事を多面的に捉えたり中庸を理想に据えたりするような言論は、何とも輪郭のぼやけた、刺激の少ない情報にしか思えないのだろう。
真実の織りなす複雑で微妙な綾を咀嚼することが難しい受け手が増えれば、いきおい言論世界には単純化が要請される。極論に拠って中間的な折衷を認めない言論の応酬が引き起こすのは社会の分断だ。今回の兵庫県知事選をめぐるコメントは斎藤氏の疑惑を糾弾し続ける声と、逆にその疑惑を告発した故人やメディアを糾弾する声との鮮やかな対照に彩られ、まだ「真実」を手にしていないという自覚を持つ者がそれらの間でおろおろしているといった風情を見せている。
俺達の生活にWebやSNSが浸透しきった現在、この流れを根本的に堰き止めるのは容易じゃない。ただ、「真実」を騙る言論が控えめで穏当な言論を駆逐してしまったり、フィルターバブルによって「真実」への盲信が無批判のうちに強化されていくような状況は回避されるべきだ。
そのためには既存のメディアにせよ個人の発信者にせよ、「真実だと思われる」情報への信頼を留保する態度が必要だろう。もちろん、受け手にもそうした慎重さが求められるのは言うまでもない。
真実はいまや超高級品だ。ブランド品と同じく、それが信じられない安さで手に入るのだとしたら、それは十中八九贋物である。そう心得ておくべきだ。