広瀬和生の「この落語を観た!」Vol.146
8月12日(土)「この落語、主役を女に変えてみた~こみち噺スペシャル~」@日本橋社会教育会館
広瀬和生「この落語を観た!」
8月12日(土)の演目はこちら。
古今亭雛菊『あくび指南女版』
春風亭一花『井戸の茶碗~母と娘編~』
~仲入り~
弁財亭和泉『死神婆』
柳亭こみち『らくだの女』
柳亭こみち芸歴20周年記念公演と銘打って行なわれた、女性落語家だけの落語会。こみちは登場人物を女性に置き換える独自の演出で古典落語を自分に引き寄せる試みを続けてきており、その数は僕の知る限り25前後はある。今回の落語会は、そうした演目をこみち自身のみならず、他の女性落語家にも演じてもらうというもの。かつて三遊亭白鳥は女性向けの新作落語を創って女性落語家に演じさせる「Woman's落語会」を行なっていたが、いわばこれはこみち版Woman's落語会とも言える画期的なイベントだ。
古今亭雛菊が演じた『あくび指南女版』は、変わった稽古事が好きな女性(愛ちゃん)があくびを女性の師匠に教わる噺。愛ちゃんに付き合って一緒に行く男友達との会話で愛ちゃんが「お辞儀の稽古:梨園の女編」や「寄席の居眠り:お客編とお囃子編」を習っていたという話も出てくる。あくびの師匠の凛とした風情が素敵で、通常の『あくび指南』ののどかな雰囲気とは違い、伝統のある流派の厳しい師匠といった毅然とした態度で真剣にあくびを教える可笑しさがこの噺の最大のポイント。“女性の師匠と女性の弟子”という関係性の面白さがテーマだ。
師匠はまず最初に「男型のあくびと女型のあくび」があると言い、より高みを目指して男型の稽古を、と志した愛ちゃんに師匠が男型の中でも初心者にお勧めの“夏のあくび”をやってみせるが、「無理です! やっぱり女型で!」ということになり、師匠が手本を示した“遊女のあくび”“老婆のあくび”“北条政子のあくび”の中から“遊女のあくび”を教わることになる。二ツ目になってから際立ってきた雛菊の奔放なキャラがこの噺に合っていて、楽しく聞けた。
春風亭一花は『井戸の茶碗~母と娘編~』。本来『井戸の茶碗』は浪人の千代田卜斎が屑屋に仏像を売るのが発端となるが、こみち版では千代田が10年前に流行り病で亡くなり、その奥方と娘みよが二人で長屋に暮らしているという設定で、女手ひとつで娘を育ててきた奥方が身体を壊し、薬代に困って屑屋に仏像を売る。この仏像は千代田家に代々伝わるもので、そこから50両が出たと言われた奥方は、大事な仏像を手放した自分を恥じて金を受け取らない。娘みよも父の教えを引き合いに出し、「私はこの50両で裕福な暮らしをしたいとは思いません」と母に同調する。
大家の仲裁で、仏像を買った高木作左衛門が20両、間に入った屑屋が10両受け取り、奥方は20両を受け取る代わり、自分が千代田家に嫁ぐ際に持参した茶碗を差し出す。「これは母の生家に代々伝わるもので、いわば私の嫁入り道具。これをお渡しするのであれば、仏像を手放した私を千代田も許してくれるでしょう」と奥方は言う。この「母の生家に伝わるもの」という設定はこみちが考案したもので、実はそれが“井戸の茶碗”という高価な品だったというのも理由がある、という見事な演出だ。
細川の殿様がこの茶碗を召し上げる代わりに高木に与えた300両を二分して150両を千代田の奥方に、という高木の提案を屑屋から聞いた奥方は「高木様は亡き千代田の志を継ぐような、高い志を持つ若侍と見ました。娘を娶っていただけるのであれば、150両は支度金としてありがたく頂戴いたします」と言い、「いかがですか、みよ」と尋ねると、娘も「母上の御心のままに」と賛同する。通常は千代田が「この娘には女ひと通りのことは教えてある」と言うのだが、果たして千代田が男手ひとつで娘に“女ひと通りのこと”を仕込むことが出来たのか、いささか疑問だったりもする。だがこの奥方が「娘に女ひと通りのことをこの私が教えました」と言うのなら説得力がある。
屑屋から奥方の提案を聞いた高木は「実は国から何度も『早く嫁を持て』と言われていたが、断わってきた。千代田の奥方とは他人のような気がしない。その娘御なら間違いはあるまい。これも仏像が結んでくれた縁かもしれぬ。娶るといたそう」と返事。それを屑屋から聞いたおみよが「私もこれからは武士の妻として、身も心も磨いてまいります」と奥方に言い、それを聞いた屑屋が「磨くのはもう結構です、小判が出るといけない」と言うのがサゲ。頑固な千代田ではなく武家の誇りを貫く母娘を主体にしたことで、素直に美談として受け取れる噺になっており、一花は真っ直ぐな語り口でこの演出をしっかりと表現していた。
弁財亭和泉が演じたのは、女性の死神が出てくる『死神婆』。金の工面ができず死のうとする男の前に現われたのが婆さんの死神。こみちが創作したのは「死神はみんな婆さん」という設定で、これがラストで大きな意味を持つことになる。医者で儲けた金を女遊びで使い果たした男が、枕元に死神がいる病人を“布団の半回転”で生き延びさせて大金をせしめると、あの死神婆さんが現われる。「あんたがあんな目に遭わせた姐さんは死神の中で一番の古株。あれであたしは、あの怖い姐さんをしくじって貧乏神に格下げだ。これが死神として最後の仕事だよ」と男を命の蝋燭の部屋へ。「あんたは女遊びが過ぎて、死神姐さんたちを怒らせた。あんたに苦しめられた女たちの恨みを込めて、あんたには死んでもらうことになりました」
男の蝋燭は今にも燃え尽きそうだ。「そりゃないよ、まだ死にたくない!」「それじゃあ、あんたの息子の寿命と取り換えるかい?」「いや……それはできないよ」「ははっ、引っ掛からなかったか。ご褒美だ。この蝋燭に火を移せたら、その分だけ生かしてやる。ほら、拾え」 そう言って婆さんが灯しかけの蝋燭を放る。必死に火を移そうとする男に、婆さんは「そんなに鼻息荒くすると消えるぞ」と話しかける。「ほらほら、そんなに手が震えてちゃ消えるよ。ハハハハハ!」「何か言うなよ!」「ヒヒヒ、もうダメじゃな」「うるせぇな! 黙ってろ、クソババァ!」「クソババァ!? キーッ!」 “クソババァ”の一言に逆上した死神婆さんが怒りにまかせて火を吹き消してサゲ。男のチャラい感じが和泉の新作落語に出てくるダメンズそのもので、和泉らしい作品になっていた。
こみちが演じた『らくだの女』は、らくだの兄貴分ではなく若くて綺麗な女性がらくだを訪ね、死んでいるのを知って「馬ちゃん、どうしてこんなことに……」と悲しむのが発端。通りかかった屑屋に彼女は「私、らくだの女です」と名乗る。屑屋はその女性が井筒屋という大店のお嬢さんだと気付き、井筒屋に大恩がある屑屋は、お嬢さんに言われるままに弔いの手伝いをすることになる。らくだの兄貴分が「らくだの死骸に“かんかんのう”を踊らせる」ことで大家から酒と肴をせしめるのが『らくだ』だが、この『らくだの女』では、お嬢さんが踊る“かんかんのう”があまりに素晴らしいので大家は祝儀として酒を、女房が肴を用意する。さらに屑屋とお嬢さんは早桶屋に行き、お嬢さんの踊る“かんかんのう”の祝儀として棺桶を作ってもらう。長屋の連中も彼女の“かんかんのう”に大喜びで、祝儀をはずむ。
屑屋と清めの酒を酌み交わすと、お嬢さんは大店の娘に生まれた不自由さから家を出た自分の境遇を語り始める。自分の不自由さを嘆き川辺で泣いていた彼女の前に現われたのが、幼馴染みのらくだだったのだという。次第に酔いが回ってきた彼女は「怖くて面白い男、それがらくだ」と笑い、生前のらくだの「出てってほしけりゃ引っ越し代を払え」といった乱暴な言動を肯定する。もっとも、『らくだ』と違って『らくだの女』のらくだは、言動は理不尽で人々に嫌われてはいるが、実際の暴力はふるっていないようだ。「世の中に当たり前なんてないって、私は馬ちゃんに教わったわ。今日が楽しけりゃそれでいいのよ!」と、次第に酒乱じみてくるお嬢さん。涙ながらに「屑屋さん、私をあなたの女にして!」「そ、それは……」「本気にすんな、バーカ! 大体なんであんたとサシで呑まなきゃいけないのよ!」
『らくだの女』は、屑屋相手にくだを巻くお嬢さんの描写で完結し、『らくだ』の後半の「死骸を焼き場へ運ぶ」展開はない。『らくだ』も酒乱の屑屋と兄貴分の“立場逆転”で終わらせる演者が多く、その意味では同じ展開と言える。『らくだ』の主役は死んでしまったらくだではなく屑屋とらくだの兄貴分であり、「主役を女に変える」とするならば屑屋か兄貴分を女性にするしかない。そこでこみちは、例えば「兄貴分に命令されて奔走する女性が最後は酒乱となって立場が逆転する」といった単純な置き換えではなく、「らくだの家を訪れるのが女性」という設定にした。このアイディアは素晴らしい。さらに屑屋がお嬢さんに積極的に協力する関係性を持たせ、死骸ではなくお嬢さんが“かんかんのう”を踊ると相手が喜んで祝儀を出すなど、『らくだ』の禍々しい要素を排除する逆転の発想で、女性演者に相応しい噺になった。
こみちはその豊かな発想力で、古典の様々な演目に女性の立場から新たな魂を吹き込んでいる。そもそも古典落語は歴代の演者がそれぞれの工夫で新たな演出を加えることで磨かれてきたわけで、こみちの発想は決して邪道ではない。演者自身が女性なら、それに相応しい新演出を施すのは、むしろ王道と言っていい。こみちがその信念を後輩たちと共有した「この噺、女性を主役に変えてみた」は、落語の歴史に新たな一歩を刻む、画期的なイベントだった。
次回の広瀬和生「この落語を観た!」もお楽しみに!
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