「行動」を自身の証明に使わない、 ということ
きょうは、こちらにもチャネリング内容をシェアしてみますね(アメブロでたまにシェアさせていただいています)。
今回の内容は、統合の途上において、なるほど、改めて気をつけたいな、と思える視点でした。
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いわゆる高次の存在と、これまでの地球でのあなたがたの行動反応が異なることについて、
決して、
「立派な行動」や「愛のある行動」というものがあるわけではないのだ、
という視点についてお話しします。
それは価値観・感覚・視点・立ち位置・角度(等々この次元に翻訳する表現は様々ですが)、そう表現されるものの違いから、必然的に生じる違いです。
個々の価値観・感覚・視点・立ち位置・角度、などからすると、どの行動も、至極適切なものです。
「勇気のある行動」をする人や「卑怯な行動」をする人がいる、という視点は、これまでの地球における視点であり、
今お話ししている視点では、そういった区別はあり得ません。
つまり、統合の途上において、行動が自身の状態を決めるものにはなり得ないのです。
その瞬間の価値観・感覚・視点・立ち位置・角度が反映された行動をするのみであり、どんな行動であれ、その価値観・感覚・視点・立ち位置・角度においては至極適切な行動です。
自身の周波数そのものと、より密接に関わりがあるのは、価値観・感覚・視点・立ち位置・角度、などと表現される、行動のもととなった、そこに展開された周波数であり、行動自体は自身の周波数をあらわすものではありません。
ですが、行動はかき混ぜ棒のように、物理次元からの動きとして、たしかにそれ自体も展開される周波数の一部としてプロセスに含まれています。
ですから行動を活用することは大いにおすすめできます。
しかしながら、行動をもってして、自身を定義づけるということはおすすめしません。
統合の途上において、行動を何かの証明にしようという無意識下の動きに気づいたならば、その動きは手放すことをおすすめします。
あなたの行動が、あなたをあらわすものではなく、行動は車のタイヤのように働いてくれるものではあるものの、タイヤの向きや運び方がドライバーであるあなたをあらわすのではない、ということを改めてお伝えします。
戻りますが、高次の存在の行動は、決して「立派な」「優しい」「愛情深い」と相対的に表現されるものではなく、あなたがたが統合の途上において、そう呼ばれる行動を目指すのは、ズレていることになります。
結果としてこれまでの地球におけるあなたがたの視点からするとそう呼ばれる行動としてとらえられるものだとしても、統合の途上においては、その視点自体変遷していきますから、主体感覚としては、ただ常に、自身の周波数とその流れにそった行動がなされるだけです。
「愛のある行動」と「愛のない行動」などという区別はなく、「周波数にそった行動」があるのみです。
ここでは、現実の展開には言及せず、行動についてお話ししましたが、同様に、物理現実が、あなたがどういう在り方かを決めるものにはなりません。
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わかっているようで、微妙な部分で取り違えがちな点だったかもしれません。
暑いですが、改めて、意識的にとりくんでみようと思います!