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#36 ダンシング・クイーン/アバ

6歳上の姉がアバとオリヴィア・ニュートン=ジョンのLPを持っていた。さすがに6歳離れていると、カルチャーが異なるので、同じ屋根の下にいても徐々に接点がなくなっていった。

小1か小2の頃だった。2キロほど離れた学校からの帰り道、腹痛になり粗相をして帰宅したことがあった。中学生だった姉が風呂を沸かしてくれて、着替えの準備や洗濯をしてくれたことがあった。要するに6歳の年齢差とは、母親の存在に近いということだ。

 私が小1のときに中1。小4のときに高1。中1の時にはもう社会人。かなりの年齢差かと思う。一緒に遊ぶこともないし、見たいTVも違う。ただ、姉と兄がいたことは私の文化基準の形成およびその広がりに大きな影響を与えている。

70年代のアバの人気は凄まじかった。スウェーデンの男女4人組は、2組の夫婦から成っていた。ビヨルンとベニーは日本でも「木枯らしの少女」のヒットで知られたデュオ。アグネタはわたしの父の妹たち、5人いるおばさんの一人に似ていた。洋楽ポップスというより、歌謡曲に近い印象でテレビやラジオで流れており、同時期のベイ・シティ・ローラーズ並みの人気を誇った。

ユーロビジョンの優勝で脚光を浴びたものの、母国スウェーデンでは商業的過ぎるとアンチもいたほど、時代はまだ政治の季節だった。

 「チキチータ」「ギミー・ギミー・ギミー」「きらめきの序曲」「マネー・マネー・マネー」など、姉のおかげで耳コピしたものも少なくない。中でも「ダンシング・クイーン」は、イントロのピアノのグリッサンドからして、すでに王者の風格と気品が漂っている。それもそのはず、時のスウェーデン王カール16世グスタフと、ジルフィア王妃の結婚式で歌われ、発売前から国内ではすでに話題の曲となっていた。

ジルフィア王妃はドイツ人。ミュンヘン・オリンピックでスウェーデン王室のお世話係をしたことから交流が始まったと言われている。国内では外国人の妃を快く思わない人もいる中、彼女のロイヤル・ウェディングが始まる。アバの4人は宮廷衣装に身をまとい、“あなたを待っているキングがいる、そう、あなたはダンシング・クイーンなの、まだたったの17歳”とジルフィア王妃を祝福し、世論を変えてしまう。翌1977年には全米№1、世界的ヒットとなる。
 
ディスコで人気を博した割には、テンポは遅い。これで踊ることができた70年代が奥ゆかしい。アバはその後もヒット作を連発していくが、過酷なツアーの中で、2組の夫婦関係はやがて終焉を迎えていく。1982年に解散、ビヨルンとベニーは、舞台音楽やミュージカル分野に進出。アバ楽曲をモチーフにした【マンマ・ミーア!】がミュージカルや映画で大ヒットする。

90年代には、ロクセット、エイス・オブ・ベイスが世界的にヒットを飛ばし、エッグストーン、カーディガンズ、クラウドベリー・ジャムなどを輩出する、トーレ・ヨハンソンのタンバリン・スタジオは、日本のアーティストにも信頼され、カジヒデキ、原田知世、ボニーピンクら名作を生み続けた。

90年代以降爆発する、スウェディッシュ・ポップの先駆がアバであったことは間違いない。いまだに三角山放送局でも他局でもよくエアプレイされ、真に時代を超えて残る楽曲であることを実感するのである。わたしにアバを教えてくれたその姉も2024年、還暦を迎えた。

★番組情報:レコードアワー
放送時間:毎週月曜 8:00~9:00
再放送情報は三角山放送局HPのタイムテーブルをご確認ください

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