#30 アイ・シャル・ビー・リリースト/ザ・バンド
ラジオから流れる不思議なスローバラードが気になっていた。曲名も正確に聞き取れなかった。アーティスト名はザ・バンドと聞こえる。そんな冗談みたいなグループ名、本当にあるのだろうか。とにかく、奇妙な曲なのだ。
ピアノの高音キーが教会の鐘のように叩かれる。さださんの「道化師のソネット」みたいだな、と思った記憶がある。ヴォーカルはいきなりドあたまからファルセット。声はか弱い。か弱いが芯が強い。スネアのスナッピーの響きは鎮魂歌を思わせるし、サビコーラスも野太い男声が重なっていて郷愁を誘う。ゴスペルと気づくのも、ボブ・ディラン作だとわかるのも、歌っている人がリチャード・マニュエルだということも、大人になってから知った話である。
読んでいたFMレコパルでは、アーティストのバイオグラフをマンガで紹介するページがあった。著名な漫画家がロック・ポップスに関わらず、だれかの半生を描く。ある時、ザ・バンドの回があった。やっぱりこのグループ名で正解だったのね。ディランのバックをやっていたという。そして「ラスト・ワルツ」なる伝説のロックコンサートを主催した、とある。
【ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク】の、東芝キャピトル廉価版CDを買ったのは、90年前後。なので、学生時代にアルバム全体を聞いてはいない。書籍「流れ者のブルース」は探して、探してようやく古本屋で入手。あちこちに傍線があり、前の所有者さんのザ・バンド愛を感じた。分厚い本だったので、読破に数か月かかったように記憶している。
怒号飛び交うイギリスツアーや、【ブロンド・オン・ブロンド】の発売を経て、66年7月、ディランがバイクで転倒し重傷を負う。ツアーミュージシャンとしてのザ・バンドは一時的に職を失った。予定されていたディランの北米ツアーは当然キャンセルとなる。ガース・ハドソン、リチャード・マニュエル、リック・ダンコはウッドストックのピンク色に塗られた2階建てに住み始め、地下にホームスタジオをこしらえる。ロビー・ロバートソンも欧州ツアーで見染めた恋人のドミニクと近くで住み始めた。翌67年にディランのリハビリと、楽曲採用デモ制作を兼ねた地下室でのベースメント・セッションが断続的に始まり、脱退していたリヴォン・ヘルムが復帰、地ならしが整った。
地下室のセッションで作られた設計図が、NYとLAで録音され、革命的なレコードが完成する。サイケだ、ベトナムだ、ニューロックだ、という時代に、むさ苦しい髭面男5人が、多彩で豊潤なアメリカンミュージックを新たな意匠で提示してみせた。
ジョージ・ハリソンを、キース・リチャーズを、エリック・クラプトンを魅了し、クラプトンに至っては、【ビッグ・ピンク】を聞いて、インプロビゼイションの時代ではないとクリームを解散してしまう。その後も彼は、デラニー&ボニーを聞いてブラインド・フェイスを解散させるのだが、それはまた別の話。リヴォンは云う「俺は誰のバックでも叩きたくはない。このメンバーのこのバンドでドラムを叩きたいだけだ」。
のちに「ハリケーン」という名曲を生む、ハリケーン・ルービン・カーターの冤罪事件。ディランはすでにこの事件に強い関心を持っていた、というのは憶測にすぎない。いつの日かいつの日か、ここから出られるその日まで。歌詞全体を見ると、刑務所か拘置所にいるようだ。ロニー・ホーキンス、ボブ・ディラン。誰かのバックで、強固なサウンドを奏でる存在から解き放たれて、自己を表現する領域へ。ザ・バンドの行方に重ねてみても興味深い。
マドンナだって、プリンスだって、大真面目に名前を付けている。英国で最も多い苗字を引用したザ・スミスだって、皮肉交じりに大真面目だ。ザ・ホークス、ザ・クラッカーズ、そしてザ・バンド。ウッドストック唯一のバンドとして、仲間たちに呼ばれていた通称をグループ名とした。当初は、その匿名性を強調する意図があったが、もはやザ・バンドという屋号以外はどれもしっくりこない、どれも違う。ザ・バンドこそ、ザ・バンドを名乗るにふさわしい。
★番組情報:レコードアワー
放送時間:毎週月曜 8:00~9:00
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