夜のシネマ

 映画がはじまるのは夜の8時40分からだった。
 わたしとすなごは学校から帰ってきたらそれぞれの家で夕飯をすませて待ち合わせをし、いっしょに映画館まで行くことにした。
 映画のチケットはすなごの母親が職場で貰ってきたものだった。
 すなごは母親から「せっかく貰ったけれど観に行く時間がない。もったいないから友達と行ってきて」と頼まれたのだという。
 上映スケジュールを調べてみたら、わたしたちがすぐ観に行けそうなのは平日の夜の回だった。
 次の日も学校があるのが少し億劫だったけれど、映画館は近くのショッピングモールの中にあったし、そこは平日夜ならたいてい空いていたから、ちょうど良いだろうということになった。

 学校から帰ってきて家でゆっくりご飯をたべても、すなごとの待ち合わせまで、時間はまだたっぷりとあった。
 わたしはこの時間何をすればいいのかわからず、うっすら途方に暮れていた。
 映画が始まる夜の8時40分というのは、ふだんならお風呂に入ってパジャマに着替えて、寝るための用意をしている頃だ。わたしは寝る前の時間が好きだから早めに布団に入ることも多い。
 そんな時間に出かけるなんていつもならありえないけれど、すなごが一緒だというので母はゆるしてくれた。
 暗くなってから家を出る、それも家族とは別で自分ひとりで、というのはわたしにとっては特別なことで、イベントごとの前のようにすこし緊張していた。
 するとすなごから電話がかかってきた。今何してる? というので、何もしていなくてぼーっとしていたと、この状況をそのまま伝える。すなごも食事をすませたあとで暇になったから電話してきたらしい。そしてまだ時間があるからお風呂に入ってから行くことにする、なんていう。出かける前にお風呂に入るという発想がわたしには全くなかったので驚いたけれど、すなごは気にせず続けた。

「だって終わったら夜中だよ。それからお風呂に入るなんて面倒だよ。明日も学校だし、あとは寝るだけの支度をして行こう」

 あとは寝るだけの支度をして行こう。
すなごの言ったそれが、わたしはすごく気に入ってしまった。なんといっても夜眠る前に布団の中で過ごす時間がいちばん好きだから。げんきんなもので、わたしはすっかりその気になってしまい、電話が終わるとすぐにお風呂場へと向かっていた。

 家を出て、待ち合わせ場所のコンビニエンスストアに向かうと、明かりの下にすなごが立っていた。やってきたわたしに気が付いて、軽く手をふる。
 暗くなってから出かけるのも、ふたりしてお風呂上がりなのも何だか変なかんじで、今日はいつもと違うことばかりで、わたしは照れくさいようなくすぐったいような気持ちがこみ上げてきて、しぜんとわらっていた。すなごも、にたにた笑っていた。映画の上映時刻よりだいぶ早めの待ち合わせになったけれど、ゆっくり行けばちょうどいいよねと、話しながら歩いていった。

 夜のショッピングモールはいたるところにイルミネーションが施されており、遠目にもそのきらきらした灯りがわかった。黄色やピンク、色とりどりのネオンがちかちか光っていて、遊園地のようなそれを綺麗だなとぼんやり眺めていたら、後ろから突然大きなサイレンの音がきこえてきた。
 足をとめて振り返ると、何台か続けて消防車が走ってくるのが見えた。そしてあっという間に通り過ぎていった。行き先はどうやらわたしたちが向かっているショッピングモールらしい。
 すなごとわたしは驚いて顔を見合わせると、後を追うように急いでショッピングモールの前まで行った。
 ショッピングモールに着くと、建物そのものはいつもと変わりなく、平常どおりに見えた。
 ただ何台も消防車が停まっていて、周囲が赤いランプの色に染まっていたし、何かを警告するように、不穏なサイレンの音が鳴り響いていた。
 入口近くには消防車からおりてきた大人たちがいて、神妙な面持ちで何か話し合いを行っており、ときおり声を荒げていた。
 そしてなぜだか、わたしたち以外にここを通る人がいなかった。建物の中から出てくる人もおらず、内側で何が起きているのか、さっぱり分からなかった。奥にある映画館がどうなっているのかも分からない。とにかく異様だった。

 そして、それは起きた。
 しずかに入り口の自動ドアが開いたかと思うと、建物の中から、ユラリと虎が出てきたのだった。
 虎は一頭で、堂々たる態度で、たっぷり時間をかけて、わたしたちの前まで歩いてくる。
 大人たちは気づいていない。
 虎には目もくれず話し込んでいる。
 彼らには見えていないのだ。こんなに近くにいるのに。

 すなごは見えているのだろうか?
 わたしはあんまり驚いてしまい身体が固まってしまったのと、何かこの場では口を使ってはいけないような気がして、とにかく話すことができなかった。すなごも黙っていた。

 この虎は喋れそうだった。
 わたしたちに何か言いたいことがあって、こうして現れたように思った。
 虎はわたしたちから一定の距離を保った地点で立ち止まり、そこから観察するかのように、じっとしていた。
 しばしそのまま沈黙の時間が流れた。
 そして結局のところ、虎はとくに言葉を発することなく、姿を消してしまった。
 風が吹いて遠くの繁みがざわざわいうと、ふいに虎はそちらを向き、颯爽と走りだし、いなくなってしまったから。
 全てはいっしゅんの出来事だったのかもしれない。
 でもわたしには、虎としっかり見つめ合った感触が残った。
 虎のつめたい瞳の奥に、自分が映り込んでいるという確かな感触が。
 虎がいなくなると、すうっと身体の強ばりが解けたようで、わたしは口がきけるようになっていた。しぜんと震えてしまう声で、すなごに確かめる。

「ねえ、今の見た?」
「うん、見たよ」
「何が見えた?」
「虎がいた」
「やっぱり、虎だったよね」

 昔からわたしたちはふたりでいると、まれに不思議なものを目にすることがあった。だからわたしはとても驚き興奮していたけれど、一方で、今夜もきっとそれだったのだろうと、どこか腑に落ちている自分もいた。子どものころから繰り返し見ている夢の中にいるような、不思議で、なつかしい心地だった。すなごの方も似たような気持ちなのか、怖がるというよりも珍しいものが見られてよかったというように、嬉しそうにわらっている。こんなふうにふたりして妙に落ち着いているのが、なんだか可笑しかった。さっきまで虎がいたあたりをボンヤリ見やりながら、すなごが言う。

「今日はもう家に帰ろう。映画はまた今度にすればいい」
 



 けっきょく後になってわたしたちがその映画を観に行くことはなかった。
 気付いたら上映期間が終了していたのか、映画じたいすでにわたしたちにとってどうでもよくなっていたのか、話題に上ることもなかったように思う。
 何というか、あの夜、映画の代わりにみた風景があって、わたしはそれでじゅうぶんだった。すなごもそうだったのかもしれない。
 映画館に行く途中で目に映ったもの、そして流れるように身体を通過していったもの、そしてあの虎は、いったい何だったんだろうと思う。

 思いだす。

 夜の、暗くなった町並み。
 隣にすなごがいて、いつもなら家の中にいて目にすることのない風景の中を、ふたりでゆっくり歩いていったこと。
 青い闇の中に、さまざまな色、形の明かりがあったこと。信号機の青や赤が、通りを走る車のライトが、横断歩道のしましまが、昼間とは違う表情をし、だまって震えながら光っていたこと。
 お風呂上がりにおもてを出歩くのは、旅先にいるみたいだと思ったこと。
 夜風が肌を撫でて、そのたびに身体が透き通っていくような心地がしたこと。
 そして突然やってきた消防車の赤いランプの点滅と、けたたましいサイレンの音。
 すぐそこにあるのに中で何が起きているのか全然わからなくて怖かった、ショッピングモールの白くて大きな建物。
 そして虎がやって来る。
 わざわざ遠くから、わたしとすなごに会いに来たみたいに、悠然と顔を上げて、こちらに向かって歩いて来る。
 虎はわたしたちを見つめて、しかし語ることなく、走り去ってしまう。

 家を出て、待ち合わせ場所のコンビニエンスストアに向かうと、明かりの下にすなごが立っていた。

 やってきたわたしに気が付いて、軽く手をふる。

 道路沿いをゆっくり歩きながら、これから観る映画のタイトルについて、私はたずねた。

「タイトル、何ていったっけ? 何か、英語のやつ」

「『Take me somewhere far away』だよ」

「それってどういう意味?」

 すなごは英語の成績が良かった。
 少し考えるような間のあとで

「わたしをつれてどこか遠くへ」

と、言った。

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