F a r a w a y

 はじめて降りた駅だった。
 そこで会った人と、ほんのひととき一緒に過ごして、すぐ別れた。
 あとで思い返すと、それは奇妙な夢のようで、忘れがたい時間になった。
 そして家に着いたとたん、私はその駅の名前を忘れていた。
 なんど路線図の上を探しても見つからないから、あれは現実の場所ではなかったのかもしれない、なんて思う。
 たしか2文字くらいの、とてもみじかい名前だった。
 それはふだんから口にするたぐいの言葉でとくにめずらしくはないのだけれど、駅の看板を目にしたときに今までとは違う印象がして、不思議だったのをおぼえている。
 いらい私は2文字だけのしりとりをするようになった。夜眠る前だとかに頭の中で、ひとりでする。
 今夜は「あ」からはじめてみて

あい、いす、すみ、みこ、こえ、えり、りく、くし、しか、かみ、みな、なつ、つき、きす、すな、なみ、みみ、みね、ねこ、こな

 いつかあの駅の名前が出てこないかなと思っている。

 嘘をついて会社を早退してしまった。
 まっすぐ家に帰りたくなくて、駅のベンチに長いこと座っていた。
 お昼間で太陽は高い位置にあってよく晴れているのに、気持ちが重たいせいか風景は薄暗く、うっすら灰色がかってみえた。
 ゴーッと電車が走ってくる音がして、線路からなまぬるい風が吹いて、顔を上げるとすべり込むようにやってきたのはいつもの電車だった。
 これに乗って、もう帰ろうと思った。
 ひらいた扉のなかに入ると車内はがらがらに空いていて、座席にゆったり座ることができた。

 外からの日射しがまぶしくて、床やシートのいたるところにいろんな形の光の模様が散らばっている。
 もようは走りながらくるくる姿を変えて、真っ黒い影が生き物のように跳ねていて、ひとはまばらで静かだったけれど、ひと以外のものが動きまわっていてずっと視界が忙しかった。
 おおきな鳥が勢いよく飛び立ったかのような影のあと、次に到着する駅の名前が流れて、それはまだいちども降りたことのない駅だった。用がないために、ずうっと通り過ぎていた駅。今まで考えたこともなかったけれど、あの町には何があるんだろう。

 ぼーっとそんなことを考えていたら、すこし離れたところに座った人がガラスに映りこんでいて、その顔に見覚えがあるのに気付いた。とても古い知り合いで、ここ何年も会っていない人によく似ている。こんなところで会うなんて人違いのような気もするけれど、私は顔を伏せてひたすら時が過ぎるのを待った。
 扉がひらくまで、しばらくお待ちくださいというアナウンス。
 そしてつぎの瞬間、私はひらいた扉の外に出ていった。逃げるように。

 この町に咲くチューリップは白か黒のものがほとんどで、それは死者を弔うためのものなのだと、彼女は教えてくれた。

 白はともかく黒いチューリップがあるだなんて知らなかった私はとっさに、ほんとに黒いの? 紫とかじゃなくて? と尋ねた。

 すると彼女は、
 黒だよ。
 真っ黒で、日が暮れるとそこが影みたいに溶けるよ。白いのは光りだすよ
と、言った。


(──その場のいきおいで、つい降りてしまった駅だった。
しずかなホームで駅の看板を眺めていたら、不意に彼女に話しかけられたのだった。
もちろんはじめて会うひとだった。)

 ほら、あそこにはけっこう広い墓地があるから、そこにいけば見られると思うよ、黒いチューリップ。

 彼女が指さす先にはこんもり緑が生い茂った場所があって、それは墓地というよりも公園のように見えた。
 大きな木のてっぺんの葉っぱが風を受けてふさふさ揺れている。

 木もたくさん植わっているし、静かで綺麗なところだよ。もし行きたいのなら、私ついて行くよ。

 お墓にひっそりと捧げられた白と黒のチューリップ。それは夜になると闇に溶けたり、白く光ったりする。
 どれも私のしらない風景で、想像すると胸がざわざわした。

 彼女にその墓地まで連れて行ってもらうことにした。ふたりで改札のそとに出る。
 さきに階段を下りてゆく彼女のうしろすがたを見ていたら、前から知っている人と一緒にいるみたいな気持ちがした。その腕の曲げ方や足もとのぽんぽんしたリズムを見慣れたものとして目に入れていた。じっさいにはさっき出会ったばかりで知らないもの同士なのが、変な感じがした。


 緑の森をくぐって行くと彼女の言っていたとおりそこは墓地になっていた。
 どの墓石も小さくつるっとしていて変わった形をしており、はじめて目にするものだった。日本じゃなくて外国にいるみたい。
 そしてチューリップの花束が、たしかに黒いのと白いのだけ供えられているのが、遠目にもわかった。
 私は驚きながら近くにかけ寄って、そおっと手を伸ばしてみた。
 黒いチューリップの花びらはほんとうに真っ黒で、存在感があり、顔を近づけると匂いだけでなく花の微かな息づかいまで聴こえてきそうだった。
 そこはモノトーンの世界で、墓石のグレーとチューリップの黒と白と、木々の深緑が、長い雨のあとの水たまりみたいに澄んだ表情をして私のことを迎えてくれた。
 聴こえるのは風の音と鳥のさえずりだけ。本当に静かで綺麗なところだ。彼女が話していた風景が、確かに目の前にあって、白昼夢でも見ているような気分だった。

 ここは昔からずっとこうなの? 
 こんな特別な所、はじめて来たんだけど

 彼女にそう言ってみたけれど返事はなく、振り返ると少し離れたところのお墓の前にしゃがみ、お祈りをしていた。

(──それから、私たちは何をしたのだっけ?)

 そうだ、とてもお腹が空いていたから、持っていた何かを彼女と分けて食べたような気がする。お墓のまんなかで小さなピクニックをした。
 私は会社で貰ったお菓子が鞄のなかに入っているのを思いだして、でも袋をあけたら粉々になっていたので笑ってしまった。
 お菓子は砂みたいにさらさらになっていて、そのほとんどが口に入らず、風に飛ばされていった。すごくあっという間だった。
 それがおかしくて涙がにじむくらい笑ったのだった。
 そして笑えば笑うほど本当はなきたいような、この不思議な景色もいっしょでどこか遠くへ行ってしまうんだという、気の遠くなるような思いがした。
 時間を、壜か何かに詰めておけたらよかったのに。
 とても素敵だったから。



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