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子育ての「~べきか」迷ったとき、『愛情度』で計らない。

うちの母は、私の数年後、妹が生まれた時に紙おむつがあることに感動して、かぶれないし、漏れないしすっごくいい!と絶賛した人だった。

うちの母は、生協さん万歳な人で、お袋の味は袋の味ね~なんて冗談を言うひとだった。

うちの母は、テレビで娘たちを起こしている人だった。

当時は少なかった保育園に、赤ちゃんのときから入り、数ヶ月祖父母に預けられたこともある。

忙しい人だったから学芸会とか見に来れなかった時もあったけど、愛情が足りないと思ったことはなかった。
お風呂入りながら架空のウサギと競争したり、作ったブロックの作品を玄関に飾ったり、どんな進路も反対されなかったり、こどもの心に対して押し付けない人だった。

そんなことを言うと、きっと、
「反対したって、どうせ本人がやりたかったらするからねー。親のいうことなんて聞かないよねー」
なんていう人だ。


私が子育てするなかで、また、他のお母さんたちと話をするなかで、母を思い出すときがある。

「(こどものために)~したほうがいいかな?」「~しないのかな?」と思ったとき、『愛情論』で計らない。ということだ。

例えば、テレビやこどもにスマホ見せるか見せないかということがしばしば話題になったとき、見せては絶対ダメ!or見せとけば楽なんだし楽したっていいじゃない、いう議論に、なんだか違和感があった。

なんていうか、そういうときの「こどもがかわいそう」みたいな思い(自分に対しても、他人に対しても)って……

『愛情論』

になってやしないか?
家族のための家事を、丁寧にやらなかった親にたいしてとか、
コミュニケーション不足が、とか。
それは、人によって全く価値観が違うし、ましてや他人がどうこう言えるものではない。
ひとつだけの事例をとって、これってどうなんだろうと思ったときに、『愛情』の有り無しで考えると、どうしても不足と言われれば反発心も出るし、平行線で行き詰まる気がする。

そんなとき、もっと『健康面』、とか、科学的なところで考えたいし、語りたい。


例えば、スマホの視聴。考えるべきなのは『スマホ育児に当たるか』どうかという漠然とした愛情論ではなく、まぁ、依存性とかはあるけども、私が気を付けたいなと思っているのは『目』だ。
テレビは明るいところで離れて、を心がけているが、スマホだって長時間近いところをみると焦点距離がそこに合ってしまうから、近視が一気に進んだりするらしい(内容の詳しいことは眼科に聞いてほしい)。
だから、長時間見せないか、なにかみるならなるべく持たせず離して見せたい、と思っている。

例えば、冷凍食品や、お総菜を活用する事。
自分の納得する範囲はそれぞれだろうと思うのだが、私は積極的に使ってきた。作る日もあり、全部頼る日もあり、残り2割の野菜分を補ってくれるときや、主食を担ってくれる日もあり……。
それを、楽してるかどうかという『愛情』で語るくらいなら、その日に炭水化物と野菜とたんぱく質が入っているかどうか、をみたい。

例えば、私はよれよれでもお下がりを着るし、やすいチェーンの服万歳だと思っているのだが、靴だけは新品の合っているのを買う。それは娘の骨格形成や、バランス感覚に関わると思っているからだ。
裸足で遊ぶときには裸足でおもいっきり遊ぶし、泥だらけになったらお風呂でごしごし洗うし、見た目をあんまり重視しない。でも、高いなぁと思いながら、靴だけは足を計ってもらって、合っているのを買う。

コロナ禍において常識が揺らぐなか、我が子を遊ばせる場所に苦労した。どこなら~、何人なら~、どういう対策をとっていれば~。日々『正解』は変わっていく。
幸いにも近くに大きな公園があったので、人のいない森のような場所で遊んだこともあった。近所を散歩したこともあった。環境のお陰で、外にでないという考え方はしないですんだ。
何が正解で何が正解ではないのかわからない。
する、しないと、選択するなかで、気持ちのせめぎ合いになるときがある。

そんなとき、
『愛情』とか、『よい母』とか、『正解の親子像』とかちょっと置いておいて、
こどもにとってどうなのかという根拠を持った視点を持ちたいと思っている。

その当時できる限りの最新のものに頼りながら、必死で私と妹を育ててくれた母を思い出す。

育児、家事は楽になればいいと思うし、こどもはすくすく育てばいい。


ちなみに、私は『夏のラジオ体操』に一度も言ったことがないこどもだった。
母曰く、「うちはみんな夜型だからねー」と。
だから、ラジオ体操は、早起きする家族が行くものなんだと思っていた。

そんな私が今は6時かっきりに目が覚めるのだから、何とかなるものである。



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