父が娘に語る経済の話

交換価値と使用価値ではなしに、交換価値と経験の価値とを対比しているのに興味をひかれます。経験の価値には使用価値も含まれますが、使用には有用性や効果を基準とする、という側面があります。

 「皮肉屋とは、すべてのものの値段を知っているが、どんなものの価値も知らない人間」だとオスカー・ワイルドは書いた。
 現代社会はわれわれを皮肉屋にしてしまう。世の中のすべてを交換価値でしか測れない経済学者こそ、まさに皮肉屋だ。彼らは経験の価値を軽んじ、あらゆるものは市場の基準で判断されると思っている。

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現代社会はそのような皮肉屋の論理が支配的なのは言うまでもなく、あらゆる領域にその影響力が及んでいます。市場は交換価値に従います、ということは、市場で交換されるには商品化されなくてはならない、ということです。

たとえそれが、労働力としての人や土地や環境であっても、交換されるものであれば、商品とみなし、皮肉屋になってしまいます。やがてそれは、交換価値を高めるための惨事便乗型資本主義(ショック・ドクトリン)を活用するまでになります。

たいして、経験は個人にとっての価値がある、といえます。たとえば、困っている人のお手伝いをする、というのは「親密さ」という個人的な経験の原則に従っています。

アイアースにとってもオデュッセウスにとっても。アキレウスの武器の交換価値はどうでもよかった。そこには、違う種類の価値があった。アキレウスの武器を受け継ぐに値する人物だと認められることが、彼らにとっては大切だった。

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このような価値観は、市場社会の前では無力であると言わざるをえません。そしてそれは、おカネの交換、借金と(利子をともなう)返済、を利用することにより設備の充実、労使関係の確立、利益の増大、そして格差の拡大へとつながります。

 あまりに大きな格差は、金持ちと権力者を不安にさせる。もし怒りの葡萄がふくらんで畑を埋め尽くし、絶望した大衆が金持ちの屋敷の周りに集まって金持ちを脅かしたなら、そのとき金持ちを守れるのは国家以外にないだろう。

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かまわないでいてほしいけれども、その庇護は受けたい、という矛盾を金持ちはかかえています。

 「支配者たちはどうやって、自分たちにいいように余剰を手に入れながら、庶民に反乱を起こさせずに、権力を維持していたのだろう?」
 わたしはこの本の第1章でそう聞いた。私の答えは「支配者だけが国を支配する権利を持っていると、庶民に固く信じさせればいい」だった。

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つまり、公共の福利でさえも、受益と負担という交換の論理に回収されているという認識されている、このような社会では、交換の場で優位にある者=支配者(分配の手段を独占している)だけが国を支配する権利を持っている、と庶民に固く信じさせなければ維持できないということです。根拠のないイデオロギーをでっち上げてでも。

ヤニス・バルファキス 関美和
『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話』 ダイヤモンド社 2019





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