主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら

著者であるチョン・アウンは、二人目を妊娠中にそれまで通っていた会社を辞めて、二週目に入って家事をしている時に、高校時代の知人に「ねえ、アウン!あんた、最近、家で遊んでいるんだって?」と言われ、また、親戚の「夫が稼いできてくれるお金で楽に暮らしているじゃないの!」という言葉に衝撃を受けた、といいます。そしてそれに疑問を感じ、問題意識に目覚めたのでしょう、それは〈女性問題とはすなわち男性問題であり、両者はイコールであるという考え。「男性」というのは、均質的な仮想の敵軍ではな〉(11頁)い、という考えることになりました。

「女性問題」とは、さまざまな社会的な場面で、女性が不利な扱いに甘んじなければならないことを指すのですが、それは「男性」によってなされるのではなく、社会の構造によりそのように仕組み込まれているだけ、ということです。「均質的な仮想の敵軍」を想定してそれをたたく、ということを回避しなければいけない、のでしょう、そのなかで本書では主に「経済」における問題を指摘しています。

経済的な場面において、家事を担う女性が排除されていることに関して、カトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食をつくったのはだれか?』を取りあげ、述べています。

 アダム・スミスが夕食を用意してくれた母親の労働を経済的要因に含めていたならば、その後の経済学の歴史は大きく変わっていたはずだ。(……)アダム・スミスが忘れていたのは母親の手だけだっただろうか。肉屋の主人の夕食を用意した手、小麦を生産した農夫の夕食を用意した手、肉を運んだ人夫の夕食を用意した手など、たくさんの手がアダム・スミス流の経済モデルにおいて影もかたちもなく消えてしまった。(……)経済学において省略された多くの手作業、それは「女性」と呼ばれる人類の手によるものであり、これらを経済学に含めることは、とてつもない政治的・経済的・文化的な変動をともなうだろう。 

98頁

肉屋は自分の儲けのために肉を売っているだけで、私たちはそのおかげで肉を手に入れることができるのであり、それが経済活動になるのですが、その肉を食べられるように手を加えた「母親」は経済活動から「消された」存在になってしまった、ということですね。この問題については、マリア・リース『国際分業と女性―進行する主婦化』で、より明確に指摘されています。

著者によると、資本主義は労働者と資本家という2つの軸からなるものではなく、労働者と資本家と再生産者(女性・自然・植民地)という3つの軸からなっている。労働者と資本家は女性・自然・植民地という巨大な氷山のてっぺんに位置する極めて小さな部分に過ぎず、女性・自然・植民地という非資本的再生産の軸が崩れたら、労働者も資本家もそれ以上存続できない。したがって、労働者が自分の妻を食べさせているという概念は間違っている。労働者が妻を扶養しているのではなく、妻が、労働者が働きに出られるように扶養しているのだ。言い換えれば、妻が夫に依存しているのではなく、夫が妻に依存しているということだ。 

136頁

労働者は資本家に、再生産者は労働者と資本家によって消費される、と考えられていますが、そうではなくて、資本家は労働者に、労働者と資本家は再生産者に依存している、と述べています。なのに、資本主義の枠内から外れて位置づけられているのです。これも経済学の祖であるアダム・スミスが母の手を考慮しなかったから、なのでしょう。

しかし、労働者が資本に搾取されていることについて『資本論』から学び、ふと自身を振り返って気づきます。

4か月にわたる『資本論』コースの最後の月、受講生同士で熱い討論を繰り広げた日だった。私たちは『資本論』のなかで最も長いチャプターである「機械と大工場」を読み、現代の「大工場」に当たる「会社」を糾弾していった。(……)
 口では会社でどれだけ苦労したかを話しながら、心のなかでは「違うんだけどなぁ。そうじゃないんだけどなぁ」と思っていた。途中から発言を中断して、しばらく沈黙を守った。そして再び討論に加わった。「よく考えたら、私は会社がそんなにイヤってわけではなかったように思います」。 

81頁

そうです。〈仕事は単純に「金稼ぎ」だけを意味するのではなく、一人の人間の能力を増幅させ、豊かな人間関係をもたらすもの〉(54頁)であることに気がついたのです。たとえそれが、「ブルシット・ジョブ(くそどうでもいい仕事)」であったとしても。そのような仕事で困難が生じ、それを乗り越え、やり遂げたときの達成感、そして、組織のなかで評価されたり、頼りにされたりすれば、自己承認要求が満たされて満足を得られます。それらは社会と繋がっている、という確信を導くものとさえなるでしょう。これが「やりがい」であると言ってもいいでしょう。

しかし、生活に不安を抱いたままでは「やりがい搾取」に近い状況に追い込まれ、「いい仕事」を続けることが困難になってしまい、離職という結果につながる可能性が大きくなってしまいます。それは家事労働をはじめとするケア労働において、その問題性はより深刻になっています。というか家事労働はほとんど無報酬ですね。そして、家事労働は世帯の収入によって、労働の評価の差が大きいということで、同一労働同一賃金の原則からかけ離れていて、「やりがい」の維持が困難なのです。

チョン・アウン 生田美保(訳)『主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら 15冊から読み解く家事労働と資本主義の過去・現在・未来』DU BOOKS 2023

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