となりのイスラム

イスラムには、確たる行動規範があるのですが、多くのイスラム教徒でない日本人はそれを受け入れることができないので、仲間になることはできない、ということになります。だから、私たちは「となりのイスラム」として接することしかできないのです。

日本ではまだイスラム教徒はマイナーな存在ですが、多くの移民を受けいれていたヨーロッパの場合は、事情が異なるようです。

アイデンティティの問題とは、個人が確立していくプロセスで、自分は何者として生きているのか、という問いと向き合うことです。しかし、トルコ人の若者たちの多くは、「個」というものが何なのかを知りませんでした。彼らの母国で支配的であった人間観は、個人主義を嫌っていましたし、多くの人が、それこそ家族の崩壊を招くものだと思っていました。
 (略)
 そのなかで、ドイツが性に合わなあった若者たちは、結局、伝統的なトルコ文化ではなく、イスラムに接近します。そのイスラムは、肌で知っているようなものではありません。ドイツに来てから本で学んだり、先生から学んだものです。それでも、イスラムにしたがって生きる道を選ぶようになったのです。

38-39頁

やはりかの地でもイスラムは隣の者として、滞在するという選択が必要なようです。

しかし、イスラムに対する差別と、それへの敵意を持ち暴力(テロ)を行使している、という現状もあります。

 じゃあ、ヨーロッパが一方的に悪いのかという批判もよく受けます。もちろん、そうではありません。「イスラム国」が悪い、アル・カイダが悪い、イスラム過激派が悪い――それはそのとおりです。しかしそれ以上に、イスラム教徒の母国が一番悪いのです。イスラム教徒が安心して暮らし、国家が少しでもイスラム的な公正や正義をおこなっていたら、イスラム教徒はヨーロッパやアメリカには行きませんでした。まして、テロなど起しませんでした。

53頁

イスラムはコーランの「教え」に従って生きる、ことをその信仰のあり方としているのですから、その実践のための生活の場が必要になります。厳密にいえば、イスラム法による支配が行われなければならないので、イスラム的国家にしか所属できない、ことになります。

そんなことは不可能ですから、イスラムの勢力が拡大すると、その土地の習俗が紛れ込み、さまざまに教えの解釈が変化していきました。また神と信者とのあいだに介在するものはありません。そして、現世での行いの審判は神により来世にあらわれる、とされています。

イスラムの知人はいないので、来世のことを信じているのかは分かりません、火葬へのおそれという事案からみても、信じているのかもしれませんが。

価値観の共有が困難なイスラムと、「となりのイスラム」として共存するさいに、ふまえておかなければならない知識を、本書から読み取れます。イスラムには私たちのいう「民主主義」とはちがった民主(主義)があります。

イスラムでは、本当に、神の下にある人間は平等。人間どうしの間に身分の差というものを認めません。このことは、イスラム教徒でない私にとって、イスラムの人間観、社会観のなかでもっとも尊敬すべき特徴です。

49-50頁

内藤正典『となりのイスラム 世界の3人に1人がイスラム教徒になる時代』
ミシマ社 2016

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