「和」と「寛容」
日本は西洋文明国以外で、最初に西洋化された国だといわれています。戊辰戦争が一八六八年、日清戦争が一八九四年、日露戦争が一九〇四年にに始まり、これでいわゆる西洋国家の仲間に入ったとされています。しかし、私たちが西洋文化を取り入れているか、といえば、それは表面的なものにしかすぎません。
「和」と「自由」を対比して述べられている点は、非常に説得的である、と同意します。両者は、対極の位置にある、とさえ考えられます(「社会」か「個」か)。そしてその対立は、日本に特徴的に表れている、と感じます。
「和」について、まず思い浮かべるのは、聖徳太子の憲法十七条の第一条にある「和を以て貴しとなす」という文章です。現代語訳をあげます。
同一ではなく調和を指向する(和して同ぜず)、ということですね。どうも理想的すぎます。上の者も下の者も「我」を抑え、分をわきまえて物事に処する、ということなのでしょうが、具体的にどういうことなのよ、という感じが先に立ちます。安易に求めれば「同」を指向することになり、「空気による支配」になってしまいます。
「自由」については、「積極的自由(~への自由)」、「消極的自由(~からの自由)」などの定義がありますが、先にあげた引用では、どうやら「個人」の自由という意味のようです。どこまで個人の自由を認めるか、ということですね。愚行権、ある個人の行為などは、周りや社会に害を及ぼさない限りでの自由を認めるべきだ、というものです。
以前、首相秘書官が同性愛者について「見るのも嫌だ」などと発言して問題になりました。私はヘテロ志向の男性ですので、同性愛については理解できませんが、その行為が密室で行われ、私に害が及ばなければ、特に不快感はもちません。というかセックス自体が愚行である(だから、いわれもなく惹かれる)、という気もしますが。
話がそれてしまいました。ここで言う「自由」とは「寛容」という姿勢によって、成り立つものです。異質なことへの寛容さが、愚行権につながるのですが、その許容範囲には、その人の経験などにより、個人差があります。同質的な集団での経験が大きいほど、許容範囲は狭くなる、とされているようです。
同質的な集団に属するということは、「人は仲間を集め群れをつくりたがり、人格者は少ない」ということに、つながります。「寛容」さは異質なものと「和」することで洗練されていくのかもしれません。
そもそも自我というアイデンティティも、私の様々なパーソナリティがよせ集まって、生まれるものなのですから。