欲望の貨幣論

法の下での自由とは、人間は生まれや身分や財産の違いにかかわらず、基本的人権を行使する「自由」を持っているということです。「貨幣はレヴェラーズだ」という言葉でマルクスが言おうとしたのは、人間は、法の下だけでなく、おカネの下でも平等であるということです。なぜならば、貨幣を持つことによって、人間は匿名性を得るからです。

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「匿名性を得る」というのは、かつては生まれや身分や財産によって、消費できるモノが違いましたが、貨幣を基準とすることで、購入に関しての平等がもたらされる、ということです。

1万円を持った人間同士は、1万円を持った人間として同じ価値のモノが買えますが、100万円を持った人間に比べたら100分の1のものしか買えない。貨幣は、人間を身分や生物や民族や言語による差別から自由にする代わりに、所得や資産の「不平等」を生む可能性を持つのです。

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誰にとっても、1万円は1万円の価値を持ったものとしてあり、おカネの前では身分差は解消されます。その意味で「平等」なのですが、1万円と100万円を持っている人とでは、商品購入の場では「平等」ではありません。

レヴェラーズとは、基本的人権を行使する自由を持つ、という意味でしたから、1万円を持つ人間同士が同じ価値のモノを平等に買える自由を持つ、ということでしょう。100万円を持つ人間との差異は「基本的」なものからは排除されていて、1万円と100万円との間には平等が成立していない、と考えられます。

通常は商品に関して使う「売り買い」という言葉を、貨幣に関しても使ってみると、私は大学から私の仕事と交換に「おカネを買っている」のです。(略)それは、(略)ほかの人に「おカネを売って」、それと交換に欲しいモノを手に入れるためなのです。

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貨幣を商品として扱うことで、おカネの下での平等は成り立たなくなります。おカネを買う仕事によって、手に入るお金の多寡が生じ、それを売って、欲しいものが手に入るかどうかという格差が、あらわになるからです。平等なき自由だけが残るのです。

貨幣経済では、たしかに個人は、貨幣さえ所有すれば共同体的なきずなを必要としなくなりますが、それは同時に、その個人を神々からも血族からも切り離し、孤独な存在にしてしまいます。

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貨幣によって、共同体的なきずなからも、神々からも血族からも切り離された「孤独な個人」は、唯一の絆である「貨幣」を欲望し、それによって、ますます、共同体的なきずなを崩壊させる可能性を増大させている、ともいえましょう。

丸山俊一+NHK「欲望の資本主義」制作班
『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』 東洋経済新報社 2020

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