日本の雇用での「新規一括採用」については、不合理な面が多い、とは常々思っていました。まるで、大学が就職のための「予備校」に成り下がっている、ようではありませんか。そして、その根本原因は「日本型雇用システム」にありそうです。
「職務を特定して雇用契約を締結する」社会であれば、どうしても職務での能力が重要視され、経験のある熟練労働者が優位になり、危険の乏しい若年者が、採用で不利な立場におかれ、職を得られない、という事態が生じている現状もありますが、傾向としてはこちらがスタンダードのようです。
一方、「日本型雇用システム」では、職務に就くという意味での「就職」はまれで、「入社」という表現のほうが似つかわしく感じられます。評価も、ブルーカラー労働者であっても、職務面での能力だけでなく、いかに組織の秩序形成に役立っているか、という評価が重視される傾向があるようです。そして、労働組合の側でも企業の論理に合致するような動きがみられました。
やがてそれは〈過労死・過労自殺問題〉が表面化し、さらに〈男性労働者の長時間労働がその仕事と生活の両立を困難にしているのではないかというワークライフバランスの問題意識が前面に出て〉(45頁)くることで、表面上は残業時間が月に四五時間という制限がもうけられるようになりました。しかし、労働者の生活を保障するのに日本では「企業中心」システムで解決します。
企業といいますか、組織への帰属意識を無意識に備えてしまうこと、へとつながりますね。生活給として支払われているもの、基本給に取り込むなり、税金として納め再分配にあてれば、と思うのですが。
そしてこれは、企業文化からはみ出た者たちにとっては、つらい状況を生みだします。
わが国での生活保護受給に至るまでの困難さは、よく耳にします。なるほど、就労困難ないし不可能な人たちへの「長期受給」を前提にしているから、一時的に生活困難におちいった人たちは「うかつに入れないほうがよい」ということになるのですね。
「新しい労働社会」とタイトルにはありますが、それへ向かって希望をもって、というようなことは書かれていませんが、問題はどこにあるのか、を他国との比較から明らかにしてゆこう、という姿勢で貫かれています。そして、立ち返るべき地平として、以下のモデルをあげています。
濱口桂一郎『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』岩波新書 2009