仏教思想のゼロポイント
〈ゴーダマ・ブッダがこの経験をしたことが、仏教の「始点」になったという意味での「ゼロポイント」である〉(160頁)。「この経験」とは、伝承で、ブッダは菩提樹の下で悟りを開いた、とされていることを指します。そういう意味では、ゼロポイントは、視点であるとともに完成形であるともいえます。
では、何を悟ったのでしょうか。いうまでもなく、「煩悩から解脱して涅槃に至る」経験を得た、ことです。
その煩悩とは、について引用します。
報酬を拒みます。報酬とは、なんらかの働き(労働)の価値を認められて払われるもので、そこでは労働(原因)報酬(結果)という因果関係が成立しているのです。そして、それは、結果を求める「欲望」が前面に出る、煩悩のもとになります。
人間は「何かに欲望する傾向性」をもつから、それに流され、とらわれ、それが煩悩になる、ということでしょう。
インド思想では「輪廻」という考え方があります。輪廻転生という言葉にもあるように、前世の因果で今生の生まれが決定される、というものと一般には考えられています。
しかし、ここでは「輪廻的な生存状況」といわれているように、いま生きているこの生に限られて適用されています。そして、輪廻とは先の引用での「業」の定義にしたがえば、後に結果を残すはたらき、によりもたらされるものになります。
輪廻は「縁起の法則」にもとづいたものであるから、煩悩を生みだすものだとされているので、解脱のためには、否定されなければなりません。そして、輪廻は現世におけるものでしたから、その人のおかれている地位や立場も、その根拠を失い、無価値なものとされます。
魚川祐司『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』新潮社 2015
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