無葬社会
網野義彦によると、死などのケガレをあつかう人たちを「非人」として特別視(天皇や寺社に直属するものとして)されていました。皇族や古代の豪族、平安貴族などは死穢《しえ》をおそれ、死者を「見えないもの」へと追いやっていました。そして、それを一手に引き受けていたのが、非人である、と言います。しかし、仏教が伝来すると、おそらく、その教えの普遍という強度のせいでしょう、死のケガレを、ただ怖れ遠ざけるものから、供養し浄化させることが可能になります。これが「葬式仏教」の起源である、とされています。
葬式仏教というと、さげすまれているように感じますが、「死」という避けられないものへのおそれと向き合い、説明できるのが、宗教の大きな役割ではないでしょうか。しかし、現在では「供養」して「浄化」させる、という意識が希薄になっている、と言います。
〈最近、献体希望者の中に「献体をすれば、大学側が葬式や埋葬をやってくれて、葬式代が浮かせられる」という理由をあげるものが増えている〉(46頁)といいます。これは身近のものには頼れないけれども、知らない者であっても誰かに「供養」されたい、という願いがある、ということで、死にゆく者の願いです。
そして、頻繁に起きる「遺骨の遺棄事件」。電車内に遺棄したり、〈他人の墓の中に、勝手に”納骨”する〉(49頁)事件や、「送骨」といって〈宅配便で送られてくる遺骨を有料で引き取って供養するサービス〉(50頁)まであるといいます。これもやはり、誰かに「供養」してもらいたい、という、しかしこちらは、遺族側の都合によるものです。
これらをふまえて、〈「死」を遠ざける風潮が、社会に蔓延しているように感じる〉(53頁)との危機感をつのらせています。そして、以下のように述べます。
それは、死にゆく人へのケアという面の重要さを、佐々木閑が述べています。
これは「檀家制度」の弊害といえそうです。寺の僧侶は檀家(お墓)の供養、つまり葬式と法要を担うことだけに専念しているからです。シャンティ国際ボランティア会の専務理事、茅野俊幸(長野県松本市瑞松寺住職)の言葉を引用しています。
日本においても、興味深いケースが二つ取りあげられています。
新潟市の日蓮宗妙光寺では、超宗派の会員制の永代供養を考案し、〈日本人の多くは、死後、イエ制度にしばられる。長男一家であれば一族の墓に入れる。次男以下はイエを出ていき、新しい墓を造る。これを俗に「墓制度」と呼ぶ〉(134頁)という檀家制度から、〈墓の使用権は、血縁者だけに限らず、内縁関係、友人であっても継承し続けることができる〉(139頁)という会員制という体制を築き上げました。それは〈「檀家になることが前提での墓造り」ではなく、「墓造りを通して、檀徒になるかどうかを会員が選ぶ」〉(136頁)というスタンスです。
檀家制度にしばられていると、前出のカンボジアがそうであるように、日本の寺院では継続的な社会活動が、困難になります。そのような状況のもとでも、山谷地区にある光照院の副住職である吉水岳彦は〈浅草や上野の路上生活者に月に二度、おにぎりを作って届けている〉(176頁)活動を続けています。路上生活者との触れ合いのなかで、
仲間と一緒にいたい、という切実な想いが伝わってきます。身寄りのない、そして孤独死の影がつきまとっている人たちにとっては、なおさらです。
死という避けられない「苦」と向き合うことの大切さを、供養をとおして実践してゆこうという姿勢が、檀家から離れた「葬式仏教」の可能性にひらかれている、と感じられます。
鵜飼秀徳『無葬社会 彷徨う遺体変わる仏教』 日経BP社 2016