ほんとうの憲法
とくに政府発表の表明などでは、「国民の皆様」に向けて発せられています。日本の場合、「国民」とは「国籍」を有している者のことですから、日本に在住していて、国民ではない者は?と、どうも違和感を感じてしまいます。たとえば憲法第十一条です。「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵《おか》すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」
国民でない者の基本的人権や政治での適応は、どうするの、と疑問に感じます。
なぜ「国民偏重」なのでしょうか。その経緯について、著者は以下のように指摘しています。
ではその「原理」とは?
「人民の……」というのは、リンカーンによる演説で有名です。人民=peopleという点に注目しましょう。
ご存知のように、日本国憲法はGHQ草案をもとにしています。そして、〈日本国憲法におけるドイツ・フランス法思想の影響が一番強い部分は、国民主権の規定である。アメリカ合衆国憲法に国民主権の規定は存在し〉(62頁)ていない、と言います。それは〈主権を相対化する〉(63頁)傾向をもつものだとしています。
主権ではなく「権力の源流」と相対化されていることが重要です。そして、国民とは憲法第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存ずる日本国民の総意に基づく」に似つかわしく感じられます。そして、それは〈「八月革命」説は、実際の憲法制定権力者としてのアメリカの存在を消し去ることに成功し〉、〈アメリカの介入を受けてもなお存続している日本という国の一貫性であり、憲法典の連続性である。「革命」の断絶をへてもなお存続する「国体」の存在である〉(132~33頁)という意志にも符合します。
日本国憲法は敗戦後、GHQ主導でもたらされたもので、その中心にあったのは、アメリカです。そして、憲法の「原理」としてもたらされた、peopleを「権力の源流」としての人民ではなく、「主権」をもつ国民として、適応させてしまった、のです。抽象的であいまいな概念でしかないもの、をゆるぎないものとして固定させた、と言っていいでしょう。
やはり、憲法の前文は重要なのです。それをふまえて、「国際社会との協調」を前提とした「戦争の回避」をうたう第九条を見れば、〈「交戦権」などという概念は、国際法で使用されている概念ではな〉く、〈「交戦権の否認」は、旧時代の概念を振りかざして戦争を正当化しようとする大日本帝国時代の悪弊を禁止するための条項であり、国際法に追いつくための条項で〉(148頁)ある、としていて、「国際法」を遵守するという立場をとります。
そもそも〈政治共同体の根本的枠組みを定める規範〉(16頁)である憲法は、どのようにとらえるべきなのでしょうか。
具体性をもった「個人」の自然権を守るためになされた社会契約が「憲法」なのです。
篠田英朗『ほんとうの憲法 戦後日本憲法学批判』ちくま新書 2017
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