タブーの謎を解く
韓国で、食用目的で犬の飼育や繁殖をし、肉を販売することを禁止する法案が国会で可決しました。犬は広くペットとして認識されていて、そのことが忌避観をもたらしたようです。また〈日本でも、「左前を着るな」、「敷居を踏むな」、「二人箸を使うな」、「さかさ水を注《さ》すな」、「夕暮れに隠れん坊をするな」といった禁戒〉(10頁)というのがありました。かつてと今日ではタブーの範囲が大きく異なっているようです。それについて著者は述べています。
リーメントとは境界という意味です。
ペットは、文明社会だから生まれたものですし、人間/動物で明確に分けられるものではないのだから、食べることへの抵抗があります。
そして、食と性に関し、〈個と種の生存と存続に不可欠でありながら、動物と共有する食と性に対しても、人間はできるだけそれを秘匿し、隠避し、あまつさえ抑圧しようと〉するのですが、〈どれほど努力しても食と性は常に文化のなかに異物として忍び込んでくる。この異物をどう処理するかが、だから文化の根幹にかかわる問題だったのであり、古くから世界のどこででも食と性に一番タブーが付着しやすい〉(17~8頁)と説明しています。
食と性は、自己が異物を外部から取り入れる(接する)、という行為ですし、それ自体が自/他のリーメンを曖昧にする、ということになります。また〈愛《いと》しさのあまり食べてしまいたいという一体化の欲望が親愛性の底に潜んでいる〉(90頁)ことも、食と性を近似したものとされ、タブー視される大きな要因になっているのでしょう。
イスラム教徒が豚肉を食べない、という食のタブーも「コーラン」にそう記されているからだけであるし、さまざまな食のタブーも、たまたま環境や習俗といった要素が関係しているだけだ、と推察されています。
では、性のタブーとは?
まずは、近親婚での遺伝的な異常に関して、他人婚に比較して親子・キョウダイ婚では二.六倍になるといいます。しかし、このデータはどのようにとられているのでしょうか。ケースの多寡の差、近親婚によって生まれた子である、との報告は正確であるのか、という疑問がありますし、それでの淘汰の「働き」も、現状で近親性交が無くなっていない以上、確実視されるものではない、と思われます。
ウェストマーク理論(子供のころより親しんでいたものは、性交を回避する)は、それによって余計に惹かれるという場合もありそうですし、父―母―子という家族関係という制度を危うくする、というのも、わが国の古代の皇統をみれば、父―母―子という関係の確立の「あいまいさ」が想定できます。
有用である女性は共同体内で消費しないで、集団間での関係を維持するために「贈与交換」される、という説ですが、あくまで未開社会でのシステムで、いわゆる文明社会に適用されるものではありません。
有歯女陰《ヴァギナ・デンタタ》という隠喩《メタフォア》があります。これをサルトルの言葉を使って、適切に説明しています。
食も(ここで言われている)性も、男女のどちらも行いますが、異物を取り込む、という点で女の性器に注目しているのでしょう。ここに食と性とが「異物を取り込む」という共通点があることが分かります。
タブーとは、自己と異物との交わりに関するものらしい、といえそうです。それは人類学者ヴィクター・W・ターナーの境界性《リミナリティ》の概念で説明します。〈リミナリティがなぜ死や子宮で象徴されるかというと、子宮《ウーム》も墓《トウーム》も前世と現世、現世と後世《ごせ》をつなぐ秘密の通路だからだった〉(132頁)といいます。まさに境界として存在しているのです。
そしてそれは〈何をもって猥褻とするかという分割線の線引き行為そのもの、コスモスを作りだすための意味付与行為それ自体にあったといえるだろう。いいかえると、それはどんな意味内容でもそこにこめられる抽象的で空虚な形式としての容器だった〉(235頁)、と述べています。
山内昶《ひさし》『タブーの謎を解く 食と性の文化学』ちくま新書 1996