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私の3.11

3.11があった日は高校の合格発表の翌日だった。

私は念願のスマホを手に入れて1人で歩いて川沿いのショッピングモールに行った。

古本屋にいた時に大きな揺れがきて、高く積まれた本棚からバタバタと大量の本が落ちてきた。
何が起こったのか瞬時に理解できなかった。

揺れがおさまり、電気が止まり、薄暗くなった建物の中で屋上駐車場への避難を促す声が響く。

外に出るとみんながガラケーを開いてテレビでニュースを見ていたと思う。

当時はまだSNSなんてやっていないし、ガラケーじゃないからテレビも見れない。
スマホの使い方もままならない中で周りから聞こえる震源地の場所を地図アプリで調べてみた。
私のいる県からそう遠くない。

母に連絡しなければ。
行き先も告げずに出てきてしまったからきっと心配している。
そう思って電話をかけるのに全く繋がらない。
かけなおす のボタンを何度も何度も押した。

やっと電話が繋がり、現在地を伝えると車で迎えに行くと言う。

母が来るまで待たなければ。

この時点ではまだそこまで恐怖心はなかった。
少し怖かったけど、母が来る。
大丈夫。
きっとすぐ電気だって復旧する。

ザワつく心から目を背けていただけかも知れない。

大量の本が降ってきて、大きな地震で、屋上に避難なんてこんな事あるんだな、と思っていた。
スマホもろくに使えなくて正解だったと思う。

私の住んでいた所は港町で、ずっとずっと昔に津波の被害に遭ったことがある。
よく行く公園にも津波の追悼碑が立っているし、学校の先生や家の人間にも過去の地震の話を聞いた事はあった。

「津波の被害に遭うかも知れない地域」
でもどんなに地震がきても、今まで私は焦った事がなかった。
この目で何も見ていないから。
よく、知らないから。


ふと目線を上げると、ショッピングモール横の河から段々と水が溢れてくる。
道路を埋め尽くし、建物の駐車場までひたひたと水に浸かっていく。

これは本当にやばいな、と、この時点でハッキリと思った。

自分の家は高台にある。
きっと大丈夫。
妹がいる小学校も坂のずっと上。
高校の兄は?公共交通機関がないときっと帰ってこれない。
私は?
この先の道路までずっとずっと浸水してしまったら?

ここから帰れないかも知れない?

ゆっくり、ゆっくりと水嵩が増していく。

目を凝らすと向こうの道路に見慣れた母の車が走っている。

母が来た。

良かった。

でも屋上駐車場に上がる入り口はもう水がきている。

私はどうしたらいいんだろう。

目をやると母の車がバシャバシャと水が来ているところを走って屋上まで上がってきた。

走って車に乗り込む。

すぐに車は発車して、少しの間にまた水嵩が増した駐車場を走って行く。

車の中で何を話したのかはよく覚えていない。
「なんで1人でこんな所まできてんの」
とか言われただろうか。




その後は、妹を迎えに行ったり兄を迎えに行ったり、まだ開いている地元の商店に行って食料を買い込んだり(実家は下宿をやっていて春休みでも生徒が残っていたため食料を欠くことが出来なかった)した。

バタバタと気づけば夜になり、蝋燭にあかりを灯し食堂にみんなで集まって石油ストーブで暖をとった。


明るくなってから窓の外を見ると、漁港の大型船が陸地に横たわっていた。
海辺の知り合いのことも心配になったが、初めての光景に、自身がいま置かれている状況が飲み込み切れずに「凄い事になっている」という感想しか出てこなかった。



当時の福島県の津波の映像を見ると、えもいわれぬ気持ちになる。
過去の映像だと分かっていても、走って!逃げて!!止まらないで!!早く!誰かあの人を助けて!!!と口をついて言葉が出てくる。

私の経験なんて生ぬるいにも程がある凄惨な光景。
あの時、私が立ち尽くしていたのと同じ時間に、一体どれだけの人が。

忘れてはいけない。
でも抱え続けるにはあまりにも重たい。

そんな記憶。


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胆振東部地震の時は札幌にいて、地震当日の朝、電気の止まった道路を自転車を漕いで30分の距離を出勤したけど、まだその時の方がマシだと思える。

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