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【DESIGNER INTERVIEW: BASE MARK 金木志穂】待っていてくれる人がいる、それがすべての原動力

2019年度のTokyo新人デザイナーファッション大賞プロ部門(以下、プロ部門)に入賞し、ブランドの基礎を作ってきたベースマーク(BASE MARK)のデザイナー、金木志穂さんが今回のゲストです。90年代のスーパーモデルを見てファッションの世界に憧れを持った金木さんが、どのようにしてデザイナーになる夢を叶えたのか? 一見遠回りに見える時間と経験は、沢山の宝物を金木さんにもたらしたようです。

「英語はあくまでもひとつのツールであって、その先に何があるのかということと、自分が何をしたいのかっていうことを、改めて真剣に考えた時に、ファッションというキーワードが浮かんできたんです」

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2021年秋冬コレクションから

ー高校を卒業されて、まずは語学学校に進むんですよね?

高校を卒業した後、英語の専門学校に行きました。1年授業を受けて、2年目で留学の準備をしたという感じですね。

ーファッションに興味を持ちながら、ファッションスクールを選ばなかったのはなぜですか?

ファッションよりも先に語学に興味があって、留学してちゃんと英語を話せるようになりたかったんです。ほぼ同時に、ちょうど中学3年生ぐらいの時が、90年代のスーパーモデルブームと呼ばれるタイミングでした。その時に『フィガロ』とか『シュプール』とか、そういう雑誌を読み始めたら、ファッションと外国のカルチャー、映画だったり、音楽だったりが紹介されていて、それでますます英語を話せるようになりたい、とにかくアメリカに行きたいっていう気持ちになって。だから高校の3年間は、ずっと英会話スクールに通ってました。

ただ英語はあくまでもひとつのツールであって、その先に何があるのかということと、自分が何をしたいのかっていうことを、改めて真剣に考えた時に、ファッションというキーワードが浮かんできたんです。留学する目的として、ファッションを英語と絡めて勉強していきたいと考えました。当時、デザイナーのマーク・ジェイコブス(Marc Jacobs)にすごい感銘を受けていたので、彼が卒業したパーソンズに行くことも考えたのですが、FIT(Fashion Institute of Technology:ファッション工科大学)の方が州立大学で学費的にも安かったので、それでFITを目指したんです。

ー物事を、その国の言語で理解したいっていう感覚があったんですね。それが今となっては金木さんの強みになっていると思いますが、ある程度基礎を築いてから、FITを目指したということですか?

そうなんですが、FITに入学するためには2つ必要なことがあって。1つは、TOEFLのスコアを取らないといけないのと、入学願書を出すタイミングでポートフォリオも提出する必要があるんです。日本でたとえば文化服装学院(以下、文化)を卒業している人は、自分のポートフォリオを持っているわけですが、私はファッションの学校を出ていないから持っていない。それでまずはニューヨークに行って、語学学校に通いながら願書提出の作業を進めたわけです。

ーFITでのファッションの勉強はどうでしたか?

それが私、結局入学出来なかったんですよ。何回か受けたんですけど、結局毎回「not strong enough」っていう結果が来るんです。でも懲りずにサマースクールには通いました。FITへの入学を諦めた時に、帰国して日本で文化に行くか、それともアパレルに就職するか、すごく迷いました。高校からストレートに文化に進んだ人と、海外留学して帰ってきた自分との年齢的な差も気になってしまって。つまり、どれだけ遅れをとっているんだろうって焦ってしまって。

ー結果的には、就職されるんですよね?

一番最初の就職先は、デニムの加工工場で、リーバイス(Levi's)やエドウイン(EDWIN)、マウジー(MOUSSY)といったブランドの仕事を受けていました。私はその工場にある、縫製から加工までを請け負うOEM部隊で、パタンナーアシスタントとして採用されました。そこで本格的にパターンを勉強させてもらったんです。縫製仕様書を書いたり、工場の人とやりとりをしながら縫製のことも勉強させてもらって。さらに働きながら、文化の『BUNKAファッション・オープンカレッジ』で、パターンや縫製の基礎的な内容は、ほとんど受講しました。そういう形で、働きながらファッションの基礎を勉強していったわけです。

ー努力家ですね。

学校に行っていないコンプレックスがありましたし、ファッションの専門学校で学んだ人達は、何を教えてもらって、いったい何を知ってるのかが知りたかったんですね。

次に工場の仕事の繋がりから、森本容子さんがプロデュ―スするカリアング(KariAng)というブランドで働くことになったんです。森本さんは今も活躍されていますが、当時人気だった渋谷109にあったエゴイスト(EGOIST)のカリスマ店員で、インフルエンサーと言われる人たちの走りですね。

「元々、デザイナーの意思でモードを作っていくっていうところが、私の中のゴールでしたが、それまで私がしてきた仕事というのは決してそうではなかった。だからマークスタイラーで伏見さんにお会いして初めて、私が理想とする感覚の人と仕事ができたわけです」


ーその次に、マークスタイラー(MARK STYLER)のアングリット(Ungrid)でお仕事されますよね?

カリアングの時の営業をされて居た方が、マークスタイラーの「アングリッド」の事業部長になったんです。それで呼んでくれたんです。

ー当時のマークスタイラーは飛ぶ鳥を落とす勢いでした。年に2回、オフィスビルの中で開かれる「タッチミー(touch Me)」という完全招待制のイベントでは、ブランドごとのショーと新作発表会が行われて、当時話題の女の子達が大勢駆けつけていましたね。その渦中にいた金木さんが考える、マークスタイラーがブレイクした一番の理由とは何だったと思いますか?

おじさん、といっては悪い言い方ですが...。年配の男性が勝手にイメージする女性像で商品を作っていないところだと思います。基本は「女の子達が女の子達に売る服」を作っていました。それは多分、当時の他の企業では少なかったことで、マークスタイラーが急成長した1番の要素はその点なんじゃないかなと思います。女の子達が創作の自由を邪魔されず、良いと思ったものがそのまま世の中に出ていくっていうのがマークスタイラーだった。それは私の中に、今でも繋がる魂のようなものですが。

ータッチミーでは、ブランドごとにスタイリストを付けて、ショーが行われていましたよね? 良く考えられたシステムだなあと感じました。金木さんがデザインしていたアングリッドは、伏見京子さんが担当でした。そのブッキングはどなたがされていたのですか?

タッチミーのディレクションをしていたイベント企画制作会社ドラムカンの若槻さんとブランドとの面談で決まります。いろいろなことが初めてで新鮮でした。

ー伏見さんを筆頭に、大森伃佑子さんや馬場圭介さん、島津由行さんといった人気スタイリストが総出で関わっていました。金木さんは伏見さんと出会って、1番印象に残っていることは何ですか?

元々、デザイナーの意思でモードを作っていくっていうところが、私の中のゴールでしたが、それまで私がしてきた仕事というのは決してそうではなかった。伏見さんにお会いして初めて、私が理想とする感覚の人と仕事ができたわけです。初めて、本当に自分が思っていた“ファッション”っていうことをやってきた人が伏見さんで、話をしていても一言一言が全部新鮮でした。ものすごく厳しい方ですが、クオリティやデザインに対してうるさいわけじゃないんです。汚いとか下手とかじゃなくて、見せ方だったり、考え方に、1つのコンセプトを貫いていて、そこから外れることはしないっていう考え方を教わりました。そうすればコンセプトは毎回違っても、最終的には伏見さんが手掛けた仕事になっていく。デザイナーもそうでなければいけない、ということを教わりました。

ーデザイナーにとっては素晴らしい体験ですよね。そうしてある種の自己発見ができたら、必然的に、その次のステップに進みたくなりますよね?

そうですね。年に2回のタッチミーがあることで、物凄く仕事を楽しむことができましたが、やはり本来のクリエーションの在り方を知ってしまったら、もっとそっちの世界できちんとやりたいなっていう欲みたいな、新しい目標ができたのは確かです。

「ニューヨーク発のコレクション作りの厳しさは半端ではありませんでした。やはり本当にデザイナーの個性だったり、持ち味だったり、そのブランドのアイデンティティが強くないと、世界では通用しないんだっていうことを強く学びました。ものすごく打ちのめされたんです」


ーそうして、タキヒヨーのファクトリーブランドとしてのベースマークがスタートします。

アングリッドでは当時MDだった佐野(現在のBASE MARKの代表)とコンビで素材開発からしっかりとものづくりに寄り添っていました。そうやって作ったものは、やっぱり、ちゃんと売れるんです。そのうちに売れるものが、作る前から分かっちゃうことが面白くなくなってきてしまって。SPA的な方法論が、自分達の中では、もう終わりかなと感じつつありました。だとしたら、今まで培ってきたものすべてを使って、もっと自分達の力を発揮できる環境で新しいブランドをやりたいと思いました。

縁あってタキヒヨーのニューヨーク支店の支店長とお会いする機会があり、彼らがアメリカで売っている日本の生地を使った日本のブランドを、アメリカで発信して行きたいとプレゼンさせて貰ったんです。そうしたら、コンセプトにものすごく賛同してくださって。最終的にはタキヒヨーの社長に合意を頂き、ニューヨーク支店とチームでブランディングをスタートする事になりました。

ーベースマークがタキヒヨーのファクトリーブランドというだけでなく、ニューヨークで誕生したというのは、そういう経緯があったんですね。ブランドの特徴ともいえる、ウール使いもこの頃からスタートしたのですか?

タキヒヨーでの生地作りの経験は、今のベースマークに大きく影響しています。けれど、ニューヨーク発のコレクション作りの厳しさは半端ではありませんでした。これはもう本当に経験不足としか言いようがないんですが、やはり本当にデザイナーのアイデンティティが強くないと、世界では通用しないんだっていうことが嫌と言うほど分かりました。日本の中ではある程度評価をもらえるものを作っていても、ニューヨークの舞台では本当に厳しいっていうのをすごい実感して、ものすごく打ちのめされたんです。同時に、アメリカの舞台であってもマーケティングベースから生まれるブランディングでは、すでに今まで経験してきた事と同じになってしまうと気づき。そうゆう事ではない、もっと私自身が発信したいコレクションを作って行こうと決めました。それでリブランディングさせて頂き、ニューヨークから東京にブランドのベースを移して、自分の見えるところで発信していく形にしました。

ーその後、2019年に円満退社で、タキヒヨーから独立しました。

本当にタキヒヨーには感謝しかないです。だから独立した今の環境には、良いところも悪いところもあるんですけど、ちゃんと自分の目が行き届く範囲で、自分らしくブランドをやって行かなければと思っています。タキヒヨーでの経験を無にしてはいけないと思うから。

「コロナになってからのほうが私のコレクションは、より挑戦的になったと思います。より元気になった。コロナは、自分のブランドが世の中にある役割や意味を、ちゃんと果たしたいっていう強い気持ちを持つ、良いきっかけになったように思います」


ー2019年には、Tokyo新人デザイナーファッション大賞プロ部門に応募して、無事入賞を果たします。サポートを受け始めて、どのような気持ちでしたか?

独立してからは、当然のことながら、お金の問題が常に隣り合わせにあります。けれど、そこばかりを考えてしまうとコレクションに影響が出てしまうから、とにかくお金のことは切り離してデザイン活動をするように心がけています。ブランドの特徴として形容される“テーラリング”を追求していくことも、まだまだ勉強の途中ですし、日々の問題がありながらも経験を重ねていかないと、自分が納得するものにはなかなか到達しないから。自分の理想を実現するためには、どうしてもお金がかかってしまう。自分が納得する形、ちょっとした原料が違うとか、加工が違うとか、そういうことを、毎回しっかりと追及して、これからも必要に応じて開発費はきちんとかけた、ものづくりをしていきたいです。

ーサポートがスタートした頃は、海外の卸先のほうが多くて、国内よりも海外を優先的に開拓する気持ちが強かったように感じました。

今でも海外中心で展開したい気持ちは強くあります。私が海外にこだわる1つの大きな理由は、私が作るものが日本の女の子達に受け入れられづらいという理由からなんです。

この数シーズン、ベースマークが日本のマーケットの中でうまく伸びてきているのは、ユニセックスという立ち位置を築けた事だと思っています。自分が好きなユニセックスのスタイルでデザインしたものが、女性だけじゃなく、男性にも評判が良かったりします。そのことが、日本のマーケットでもやっていけるかもしれないと思えたきっかけです。逆に海外だと体形的なことや価値観の問題から、ユニセックスという考え方はあまり通用しません。だから日本のマーケットでベースマークらしいユニセックスを浸透させていって、きちんと売り上げがとれるところまで育って行ければと思っています。

ープロ部門のサポート2年目となる2020年は、コロナによる影響で海外に行くことがままならず、半強制的に国内に集中しなければいけなくなりました。そのような状況は、ブランドにどのような変化をもたらしましたか?

元々、自宅がオフィス兼アトリエで限られた人としか会わないので、自分を取り巻く環境にあまり変化は無かったのですが、ただ世の中が、洋服に対する考え方とか立ち位置とか価値観というものを、どんどん変えていく様子は感じていました。それがきっかけで、ファッションや洋服が何のためにあるのか、ということを強く考えるようにもなりました。結果的にコロナになってからのほうが私のコレクションは、より挑戦的になったと思います。より元気になった。もしかしたらそれが一時的に売れない方向に行ってしまうかもしれないけれど、コロナは、自分のブランドが世の中にある役割や意味を、ちゃんと果たしたいっていう強い気持ちを持つ、良いきっかけになったように思います。

ー確かにこの2シーズンぐらいは、色使いや柄使い、テーマの設定などに、金木さんの持ち味が発揮されていると感じます。同時に、ベースマークが得意とするパンツスタイルやテーラリングといったデザインが、定番としての役割を持って機能し始めたとも感じます。

日本のマーケットで卸先さまが殆ど無かった頃は、誰のために作ってるんだろう?といった疑問を感じる辛い時期もありましたが、今は待っていてくれる人がいる事がとても嬉しいしやりがいを感じます。そういう卸先さまが少しずつですが、着実に増えていて、お店のオーナーさんやバイヤーの方が「一緒にブランドを大きくしていこうね」って言ってくださるのも、クリエイターとしてとても幸せなことです。

ブランドにとっての定番は、お客様と作っていくものだと思っています。卸先さまや継続して買ってくれるお客様が「これ気に入ってるから今回も買うよ」って言ってくれることで定番が生まれるほうが、自然な流れだと感じる。ようやく今、シーズンを重ねて、卸先さまのお客様にもベースマークが浸透してきて、ベースマークの定番の意味が出てきたと感じます。

ーコロナ禍でもコレクションを3シーズン3回、ムービーで発表しました。一番気をつけたのは、どういった点ですか?

やっぱり1番大事なのはベースマークというブランドのコアな部分を、より濃く、より伝わりやすく、表現して浸透させていくことが大切で、そういう意味ではムービーを作って終わりじゃないようにしないといけない。ブランドのコアなところがちゃんと見えるような発信の仕方ができれば、絶対に売れるようになるとも思っています。できることなら次回は、フィジカルでショーができたらいい...。

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2022年春夏コレクションから。バッグは前シーズンから継続して、チェコのバッグブランド「BRAASI INDUSTRY」とのコラボアイテム。

金木志穂 Shiho Kaneki
1982年 神奈川県茅ヶ崎市生まれ。パタンナーアシスタントからキャリアをスタートし、独学にてテーラリングを学ぶ。マークスタイラーなど企業での長年の経験を経て、2014年 BASE MARKをニューヨークにて立ち上げる。2019年Tokyo新人デザイナーファッション大賞プロ部門入賞。

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