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雲南日本商工会通信2021年7月号「副会長の挨拶」

 牛は草を食べ、狼は肉を食べ、カエルは虫を食べる。
 肉食動物は肉を食べ、草食動物は草を食べる。
 人間と違って「今日、何を食べようか」、「おやつはエクレアとシュークリームのどちらにしようか」などと悩むこともない。
 
 彼らが何百万年、何十万年をひたすら同じ食物を食べ、生き延びて来られたのは、彼らが獲物を捕る強力な武器を持っていたり、他を凌駕する繁殖力があったり、素早く逃げられる能力を持っていたなど、それぞれの生き残る合理的理由があったからでしょう。
 逆に人間は、裸のサルで、武器となる牙はなく、逃げ足も遅く、妊娠して10ヶ月、出産して1年も自分で歩けないような子供をもつゆえに、「食べられるものは何でも食べる」ような雑食性を持たなくては生き残れなかったのでしょう。
 日本も江戸時代まで飢饉で多くの餓死者が出ていたし、50年ほど前までは中国でも大躍進運動や文革の中で多くの餓死者が出ていたし、北朝鮮では今も餓死者が出ているのかもしれません。
 人類は餓死との戦いに、その力と関心のほとんどを注いで生きてきたわけで、「食べること」への関心は生物としての本質としてDNAに深く刻まれているに違いありません。
 単食動物のうち、草食動物は食物を求めて移動と縄張りが主要な関心事になるし、その草食動物をエサとする肉食動物は、草食動物を求めての移動と縄張りが主な関心事になるし、実際、今もそれが行動原理でしょう。
 ところが、雑食性である人類の場合、単食動物ほど話は単純ではなく、複雑な要素が加わります。絶対的な食料の枯渇は大問題ですが、同時に何を食べるかという選択も大問題です。
 
 肉、魚、昆虫、野菜、果物、木の皮、地下茎いろいろと選択肢があるが故に、迷いも決断も必要です。たとえばフグやトリカブトや毒キノコに挑戦した人もいただろうし、そういう新しいものに挑戦することを避ける保守的な性格の人もいたから、こうして何とか生き延びてきました。
 上記2つの性格を持つ人のうち、新奇好みの遺伝子を持った人を、ネオフィリアといいます。逆にそういう新奇を避ける保守的な遺伝子を受け継いだ人をネオフォビアといいます。どちらが良いとか優れているという事ではなく、生き残るプロセスでそういう2種類の性格がいることが有利に働いたのです。アウストラロピテクスや、ホモエレクトスやネアンデルタール人など、多くの類人猿が絶滅したなかで、ホモサピエンスだけが生き残り、世界を征服している理由のひとつは、この雑食性と遺伝的に保守、革新の2つの性格のバランスにあったのかもしれません。
 ミトコンドリアイブという理論があって、現生人類の祖先を辿るとアフリカの一人の女性に辿り着き、私たちはみんなその女性の子孫だという理論です。
 20万年前にアフリカで生まれ、10万年前に中東を経て、ヨーロッパに渡り、5万年前にアジアや陸続きであったオーストラリアやアメリカに渡ったそうです。
 そう考えると、オーストラリアの原住民族であるアボリジニとか、アメリカのインディアンなどとアジア人は、顔かたちがよく似ているようにも思えます。
 アフリカを出て、狩猟採取生活していた19万年は、新奇好みのネオフィリアが優勢で、才覚によって部族の繁栄をもたらしていたでしょう。ところが1万年前に農耕と定住生活が始まり、情勢が急転します。農耕というのは、毎年、同じ事の繰り返しで、技術革新が極めて遅い分野ですから、新奇好みのネオフィリアよりも、決まった事を決まったように行う保守的なネオフォビアの方が優勢です。そこではネオフィリアは変わり者として日陰に置かれます。主役はもっぱらネオフォビアで、その保守勢力の中での権力闘争というのが、歴史を作ってきました。自民党の派閥抗争が典型で、保守の中での勢力争いの時代が続いてきました。
 ところが、状況が再度、一変するのが、産業革命と情報革命です。
 
 産業革命では、新奇好みで挑戦した人が大量の生産能力を手に入れ、供給社会を一変させます。情報革命では、新奇好みで挑戦した人が大量の情報能力、販売能力を手に入れ、消費社会を一変させます。
 農耕社会以来、9900年間、我が世を誇っていた保守的なネオフォビアは、日陰に追いやられようとしています。
 こう考えると現代の日本の重厚長大な上場企業がIT企業に追いやられている構図も、アメリカの伝統的な保守層がプアホワイトとして日陰になりつつ状況も、中国共産党がIT企業を傘下に収めようとしている意図も、ネオフィリアとネオフォビアの抗争として繋がります。
 ネオフィリアとネオフォビアは、ほとんど遺伝的傾向として定義されています。それを意志で変える事は困難なのかもしれません。「変化に適応した有利な個体が生き残る」という進化論の原則に従えば、IT企業やユーチューバーとして金持ちになったネオフィリアはモテるから結婚や離婚を繰り返し子供を作り、保守的なネオフォビアは中年になっても結婚できない、子供も作らないという構図で、子孫を残す遺伝子の数として勢力の逆転が起きているのが現代なのかもしれません。
 LGBTQの権利など、マイノリティーの権利が声高に叫ばれるのも、時代はネオフィリアに有利に向かっているからということでしょう。
 誠実で伝統的な奥ゆかしい人にとっては、受難の歴史が幕開けているのかもしれません。
 20万年間を生き残り繁栄した人類も、その内部では時代に応じた性格的な有利不利を繰り返してきたし、今もその大きな勢力図変化の真っ直中にあるような見方もできるのかもしれません。

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