人間関係を構築できない理由とリスクを取るべき理由
私は臆病で自分が傷つくのを極端に避けてきた。
少しでも人にNoと言われるのが怖くて自分から遊びに誘ったこともないし
恋愛も自分からは行かないし、フラれそうかもと思ったら
自分からお別れを告げたり、もうとにかくNoと言われることを避けてきた。
人間関係を構築すること。
私の解釈では「相手を思いやり相手のの立場に立って考える」ということの実践だった。
そして、私は人の顔色ばかり伺って来たのだけれど、結局、相手のことを心から好きにもなれず、信頼も出来ず、空回りの行動しかできず、心身だけが疲れ果て関係を継続することができないという結果になった。
少し価値観が違うと感じたことがあれば自分から距離を置いたり、
俗にいう、人間関係リセット癖が何回か発動している。
そもそも人と深い関係というものがどういうことなのか、
思いやりを示すこととはどういうものなのか、
思いやりを示すにはどんな言葉を使って表現すればよいのか、
親しいということと利用されていることの違い、
気持ちを理解することと相手との境界線を引くこと、
そういうことがてんでわからずお手上げなのである。
私は、自分が調子の悪い時でも相手に心配させてはいけないと思って気丈に振る舞う。もしくは気丈に振る舞うことで元気になったと思い込む。
しかし、相手が調子の悪いところをそのまま見せてきたら、私への不快感を伝えてきた、私を邪険に扱ってきたのだと思い込んで落胆してしまう。
加えて、私の中で人との関係構築の未来を考えた時、特に恐怖や不安を感じる原因の一つに愛別離苦もあるのだろうと思う。
あいべつりくは仏教の考え方で、生きる上の苦しみの一つであり、愛するもの同士でもいつかは別れがやってくるため、別れの苦しみを指す。
結局、私は愛別離苦をどうにか避けようとしているのかもしれない。
しかし、そうやって、いつも自分が傷つくのが怖くて、リスクを取らずに生きてきたら、
気が付いたら手の中には何もなくなっていて、守っていたはずなのにズタボロで空虚な自分の心しか残っていなかったのである。
傷つくことを恐れずにもっと能動的に生きたとして、
想像しなかった悪い結果があったとしてもそれは、それはなんらかの財産になっていたのではと、今、ふと思った。
そもそも傷つくってなんだ。勝手に不快感を心の傷として刻み込もうとしている自分というか脳が本来持っている危機管理の本能。
これだけ人類がいるなら、一人は理解者はいるかもしれない。
その人に出会うための人生にしようと思う自分もいる。
人に一番傷つけられたし、人にとことん絶望したのに
まだ人に希望を持ち、期待している自分が嫌になる。
ただの快楽主義者。
でも、私、たくさん我慢したよ。
あんたたちみたいに、人が傷つくことを私は言ってないし
してない。