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喫茶店と散歩、読書その他 花小金井、小平あたり

花小金井駅には、たまに来る。好きな町中華があるし、小金井公園にある江戸東京たてもの園も、何度行っても飽きない。
小金井公園とは反対方向だが、滝山団地の存在も知っていた。バスの表示に出ていたからだ。それだけだ。
まさか、行ってみることになるとは、思ってもみなかった。


有り体に言えば、聖地巡礼である。
アニメでも、映画でもない。テレビドラマの舞台に、滝山団地がなったのだ。と言っても、夜10時台のNHKのBSドラマだ。時間帯とチャンネルに相応しく、肩の力が抜けたドラマだった。そのゆるさが、眠い目こすってぼんやり眺めていたぼくの脳のゆるさと、共鳴を起こしてしまった。


タイトルは「団地のふたり」。枕に「団地」とつけば、条件反射で「妻」と口をつき、よからぬ妄想をしたのは、遠くなりにけりな昭和の話だ。
舞台は現代。主人公は元妻で(団地に)出戻った、バツイチ五十代ゆるゆるの、恋が遠い日の花火になりきったふたりである。
それでも生きている。ぼくもまた然り。
ふたりは、小泉今日子と小林聡美が演じている。等身大過ぎて、虚実のあわいを見失いかけるキャスティングだ。(もちろん、実際のふたりは、れっきとしたスターだが)
花小金井駅から歩いていくつもりだったが、バス停で確認したら遠そうだったので、バスで行くことにした。散歩だから歩くというのは、柔軟さを失った老人の思考である。散歩なんて、好きにすればいいのだ。無理に歩かなくてもいい。


いくつもある団地周辺のバス停から、団地名まんまの滝山団地停留所で降りた。
途端に、思った。大きい。かなりの大規模団地だ。視界すべて、団地である。築半世紀は経ているに違いない。古びていることより、何棟も延々と続く建物の容赦ない画一性が、大量生産の時代を感じさせる。


ひとの気配は少ない。ちらほらと年寄り、公園に親子連れ。建物の密度の濃さに対して、あまりに密度が薄い。聖地巡礼者は、ぼくひとりだ。
ドラマでは、駅からの遠さが問題となり、再開発計画が頓挫する。然もありなん。東京の人口はいまだ増加しているかもしれないが、郊外では過疎が始まっている。このまま放置されたら、滝山団地は巨大な江戸東京たてもの園分園になってしまいかねない。
日溜まりのベンチにへたり込んだぼくの耳に、ふざけ合う子供たちの甲高い声が響いてきた。さみしい近未来SF世界を頭に浮かべていたぼくは、我に返り救われた気分になった。


静かな団地をうろつき、シャッターの降りまくった商店街を抜けて、帰りは小平駅へと歩いた。正直に書く。遠かった。西武新宿線ではなく、池袋線の東久留米駅か清瀬駅を目指しても、遠いことには変わりはない。光が丘には大江戸線が通ったが、ここにまだ「陸の孤島」が残されていた。


小平駅南口に出て、ロータリーの端にあるビル2階の「永田珈琲」に入った。九割がた埋まった店内は、女性ばかりだった。店員もみな、女性だった。カフェではない。豆にこだわりのあるコーヒーを出す、茶色な内装の喫茶店である。書き忘れたが、休日である。男性は、どこに消えたのだろう。昼飲みできる居酒屋か。


「団地のふたり」にも、喫茶店は出てくる。パンケーキのおいしい店だ。撮影に使われた店は、京成立石にあるらしい。
歩き過ぎて空腹だったぼくは、ミートボール・ボロネーゼのセットを注文した。
ドラマの原作である、小説のほうの「団地のふたり」を取り出す。まだ、未読である。どうせなら、出だしだけでも、聖地の近くで読もうと思っていたのだ。


カウンター席に座るぼくは、向かいの店員さんが俯いて洗い物を始めたのを機に、念のため賑わう店内を見渡してだれもぼくを見ていない(自意識過剰である)ことも確認の上、書店のカバーを外して本の撮影をし、またすぐカバーをつけた。
ぼくは小心者だ。いい歳をした聖地巡礼者が、原作本持参で写真を撮っているなどと、冷たく嗤われたくないのだ。嗤われなくても、気づかれるだけで、顔面が紅葉見頃になりかねないのだ。だが自己満足のため、写真は撮っておきたかったのだ。


そそくさと第一話だけ読んで、店を出た。原作では、団地は駅からすぐにある設定になっていた。ならば、再開発計画は順調に実行されてもおかしくない。ドラマとは違う結末が待つのか。家で落ち着いて読むとしよう。


小平駅のロータリーを歩きながら、そういえば数年前、伊勢正三のライブで、ルネこだいらにきたことがあったと思い出した。

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