短編小説「暁に恋して」作 清住慎 ~4.~
4.
私はつくづく卑怯な人間だ。
まだ彼に傘を返していない。あのときどんなにありがたく思ったか、一緒に傘の下にいたあの時間がどれだけ楽しかったか、まだ彼に伝えていない。
それは恥ずかしいからではない。
クラス中から半ば村八分にされている彼に話しかけることで、みんなの自分に対するイメージが悪くなることを、みんなから彼と同じような扱いを受けることを恐れているからだ。
だから二人きりになれる機会を狙って、彼と話したいと願う。
けれど私の回りには常に友達がいて、登下校も休み時間も自ら労を割かなければほとんど一人になることはない。
私は今、そうすることを嫌がっている。出来るだけ友達の中に埋没し、隠れていたいと思っている。
彼はと言えば、全く今までと変わらなかった。
あの日のことを特に恩着せがましく言って来るでもなく、特別私だけに笑顔や視線を振り向けてくれることもなく、それどころか全く目を合わせることも会話をすることもない。
それは私に対してだけじゃないのだけれど、彼にとってあの日のことは何でもないことだったのだろうかと、私は少しせつなくなったりする。
彼は教室内にいるときは、相変わらずぼんやりと窓の外を眺めており、私の瞳は彼の顔の右半分に吸い寄せられている。加えて、あの日以来、髪が揺れた拍子に耳朶のピアスが見えないかと、時折目を凝らすようになった。
そうしているうちに、学祭まであと十日となった。
私達のクラスは、「お祭り」をイメージした屋台を出すことになっている。
男子が屋台や御輿の骨組みや設計などを担当し、女子は宣伝チラシ作りやメニューの選定、材料の調達などを担当する。
担当分けは生徒の自主性に任されるが、男女共にクラスの中でも三、四つくらいの仲良しグループがあるから、それに基づいていつの間にか自然に決まっていた。
私は、有里や理子や倫世達と一緒にチラシを作るグループに入っていた。
この時期になると、連日授業が終わった後すぐに準備作業に取りかかるようになる。部活に入っている人達はそちらが優先になってしまうけれど、クラスの方を全くないがしろにするわけにもいかないから、各自時間を調整して両方の準備に参加している。
霞君は、どこのグループにも入っていないので、毎日授業が終わるとさっさと帰宅していた。が、今日は違った。
「おい霞、ちょっと待てよ」
ちょうど教室を出るところだった彼を呼び止めたのは、ミッキーだった。
「一応お前もクラスメイトなんだからさ、何か手伝えよ」
棘のある言い方だった。けれど霞君は無表情のまま振り向いて、「いいけど」と返した。
「じゃあそこにある材木から、十五センチ幅の角材を切り出してくれよ。ここじゃあカスが出て汚れるから、外でな」
ミッキーが顎をしゃくった先には、二メートルくらいある太い材木が何本も転がっていた。屋台の支柱や神輿の部材にするためのものだ。
一瞬、間があった。みんながこれからどうなるのか注目していた。
「いいよ」
霞君は表情を変えないままそう言うと、一本目の材木を肩に担いで教室の外へ出て行った。
「あいつ、結構力あるじゃん」
「ああいうの、ブチギレたら逆にコエーかもよ」
そういった声の後に、クスクス笑いが起きた。私は不快な気分になった。とても一緒に笑う気になどなれない。
彼が四本目の材木と工具を持って出て行くと、私はちょっと間を置いてから仲間達に断って、その後を追った。
案の定、霞君は苦労しているようだった。この手の材木をのこぎりで切る場合、誰かが片側を支えてやらないと非常に切りにくいのだ。裏門の花壇の脇で、古い煉瓦を重ねて台を作ったりしながら、彼は何とかまっすぐ切る方法を模索していた。
私が近づくと、彼はすぐに気がついて、視線をこちらに向けた。私は黙ったまま材木の、煉瓦で支えられた地点の上に腰をかけ、にこやかな笑顔を作った。
「ここに座っててあげる。そうすれば、ブレずにまっすぐ切れるでしょ?」
「ああ。悪いな」
「気にしないで。どうせ暇だし」
「ありがとう」
彼はそう言って、ちょっと笑顔を見せてから材木にのこぎりを入れ始めた。
と同時に、私のお尻に規則的なバイブレーションが伝わって来る。それが彼の手によるものであることを思うとき、私は悩ましい気分になる。
思わずここに来た本来の目的を忘れてしまいそうだ。本当に忘れてしまわないうちに、私は話し出すことにした。
「あの」
と声をかけると、霞君は手を止めて私の方を見た。
「あ、いいの。続けて、そのまま。切りながら聞いていてくれればいいから」
そう言うと、すぐにバイブレーションが戻って来て、また私の官能をくすぐり始める。私はこっそり深呼吸をした。
「あの、ありがとう。あのとき、傘を貸してくれて。本当に助かったし、嬉しかった。なのにごめんね、お礼言うの、こんなに遅くなっちゃって。言おう言おうとずっと思ってたんだけど……。傘、教室のロッカーに入ってるから、後で返すね」
「いいよ、別に。あげるって言ったろ」
「でも……」
「実佳ぁ!」
ふいに背後からの大声が私を呼んだ。有里だ。私は口から飛び出そうになる心臓を無理矢理飲み下してから振り向いた。
「何でこんなとこいんのよ、実佳。早く来てよ。アンタいないと話まとまんないんだから」
有里は自分の腕を私のそれに絡ませると、強制的に私を立ち上がらせ、連れ去ろうとした。彼がこっちを見ていたので、私は有里に気づかれないように片手を顔の前に上げて「ごめんね」と唇を動かした。
彼がそれに気づいてくれたかどうかは判らない。彼はその後、再び材木との対決に戻っていった。
「何か弱みでも握られてんの? アイツに」
廊下を歩きながら、有里は少し怒ったような調子で言った。私の右腕は今でも有里に奪われたままだ。
「え? 何で?」
「自分のスカートを覗き込むようなヤツの手伝いするなんて、ありえないじゃん。それに最近、実佳、授業中に怯えてるような目でアイツのこと見てるだろ」
私はさっき飲み下した心臓をまた吐き出してしまうほど驚いた。
有里の席は私の二列右隣。だから確かに、私が彼の方を見つめているのを目撃してもおかしくない。それにしても、私は出来るだけ周囲の目を気にしながらさりげなく視線を向けていたつもりだったのに、既に気づかれてしまっていたなんてショック。
でも幾ら何でも、「怯えてるような目」っていうのはないんじゃないの? 普段からそういう風に見えているのかしら? それとも霞君の方を見るときだけ?
私は急に周りの視線が気になりだした。と同時に、私の返事を待っている有里の視線にも気がついた。が、今の自分の気持ちを正直に話すことなど出来はしない。というか、まだ自分でもはっきり整理出来ていないのだ。
曖昧に悩む姿――、それは周囲が私に求める「クールでカッコイイ女」のイメージにはそぐわない。
「何言ってんの。弱みなんかないし、怯えてるわけでもないよ。アンタすぐに、何でもストーリー仕立てにするよね」
と、それだけ返し、私はニヤリとして有里の顔を覗き込んだ。
彼女は少し照れながら、私の腕を抱く力をさらに強めて、「だって、その方が世の中面白えだろ」と言って笑った。
私達は、泥酔して駅前を歩く中年のオジサンのように、左右にふらつきながら教室へ戻って行った。
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