短編小説「暁に恋して」作 清住慎 ~8.~

8.

 その日から、彼を見つめる私の視線は、前より一層熱を帯びたものへと変わった。自分でもそれが判っているから、出来るだけ視線を向けないようにしているのだが、彼はまるで極性の異なる磁石のように私の瞳を吸いつける。

 気がつけば、私は霞君のことばかり考えている。

 家にいるときは何をしているのか、食べ物や映画の好き嫌いはどうかとか、そんなことも考えるけど、もっと強く私の興味を引くのは、普段は髪の裏側にあるピアスのこと、ドラムスティックを握る手に滲む汗の匂い、バスドラムのペダルを踏むときのふくらはぎの筋肉の動き、彼の咬む指の爪の色――、私って、変態かしら?

 そして当然エッチなことも考える。彼になら、されてもいい。いや、彼となら、したいと思う。

 そういう目で私は彼を見る。そして、裸になったときの彼の身体の各パーツはどんなかなと想像をたくましくする。他の男の子ならとうてい耐えられないが、彼になら私は身体のどの部分に触れられても不快感を覚えないだろう。

 不快感どころか、きっとそのとき私の身体は全神経を鋭敏にして、彼の手が奏でる甘く狂おしいほどのバイブレーションを待ち焦がれるだろう。そして次に訪れる痛みに恐怖しながらも、その先に待つ深い官能の谷底へ自ら落ちることを望むだろう。

 高校生にもなれば当然、性についての知識はある。避妊についてもそう。けれど彼とそうなりたいと願うとき、そうしたことは全て吹っ飛んじゃって、とにかく今すぐそうしたいという強い衝動が来る。

 それは確かに、私達の年代に当然のようにある「人より早く異性を知る競争」の影響があることは否定出来ないけれど、でもそんな衝動に身を焦がしても、決して消極的ではない性格の私が自分から彼にそう言えないのは、未知の部分に対する恐怖があるから。

 友達に恋のアドバイスをしたり、自分を見せる術をそれなりに知っている私を周りは場数を踏んだ女だと思っているけれど、実は私はまだヴァージンだ。だからエッチに対する強い欲望を持ちつつも、大いなる不安が私の中に住んでいる。

 彼は、私の身体に満足してくれるだろうか?

 最大の懸念はこれだ。服を脱いだ彼の身体がどんな風でも、私は受け入れることが出来る。でも彼はどう思うだろう? 身体を覆う全てのものを脱ぎ捨てた私を綺麗だと思ってくれるだろうか?

 私の感情はとことん先走る。まだ彼に告白してもいないのに。それに対して、彼がどう応えるかも判らないのに。

 でも私は知っている。この先走りが相手に対する思いの強さの表れであり、「人より先に異性を知る競争」をしながら、実際には「いつ」ではなく「誰と」の方がはるかに大事だと、既に自分が本能的に気づいているということを。

 今日、私は寝不足だった。

 朝日が昇りきった頃に自宅に戻ると、待ち構えていた父に平手打ちを食らった。母も起きていて、朝帰りの理由を問い質す。ライブハウスでの出来事は、既に私の中でかけがえのない財産になっている。だから相手が親であるなしにかかわらず、私は誰にも言いたくなかった。

 やましいことは何もない。友達のところに行っただけ。

 私はそう主張したけれど、露出の多い服とアルコールの匂いが彼らの疑念を深めているようだ。でも私の主張はある意味真実。一晩帰らなかっただけで、犯罪者のように拘留して尋問したり、自白を強要したりしないでよ。

「いい子だから」、「安心している」、「信じているから」なんて虚飾の言葉で無関心を繕うやり方なんて、もう見飽きてる。「そんな服で」って言うけれど、この服今日初めて着たわけじゃないよ。もっとセクシーな下着もあるけど、時々洗ってくれているのに覚えてなんかいないんでしょ。

 私が毎日学校へ行って何をして、何を考え、どんな友達がいて、どんな風にバイトして、どこで服や下着を買うのか少しも知らないくせに、どこを見て安心出来ると言うの? だからこんなとき、感情が昂ぶったりすると本音が覗いてしまうんだ。

 最初は話せば判ることだったのに、いつの間にか話す場所すら見つけられないほど距離が開いてしまったのは、私が望んだことじゃない。

 私がそのまま何も言わないので、両親は追及を諦めた。

「さっさと寝ろ。もう二度とするな」

 そう言って身を翻した父を見て、私は深い悲しみを覚えた。死刑囚の身体を電気イスに縛りつける刑務官だって、あんな冷酷な目つきは出来ないだろう。

 母は学校を休むように言ったけれど、私は少し眠ってから行くことにした。幸い殴られた頬は腫れるほどではないし、目の隈もそんなに目立たない。

 登校中に有里達と一緒になったけど、彼女達に「どうしたの」と一度も言わせないほど、私は私を演じきれた。唯一訊かれたのは、昨夜あった着信に応えなかった理由についてだが、これについては曖昧に返事をしておいた。

 外気を遮断した教室内はぽかぽかと暖かく、私は幾度となく睡魔に屈服しそうになった。が、その度に私はなくなりつつある精神力を振り絞って目を開けていた。

 授業中に机に突っ伏して眠る女をカッコイイとはお世辞にも思えないからだ。だけど今日はとても耐えきれない。少しくらい……と思っていたら、前の席の藤崎君が先に机に伏して眠ってしまった。

 そうなると、私の様子は教壇から丸見えだ。それに、いつ霞君の視線が私の姿を望むかもしれないと思うと、やはり眠っているわけにはいかなかった。

 奇跡的に昼休みに辿り着いたものの、さすがにもうこれ以上はダメだと思った。昼食を摂ったが最後、五時間目以降熟睡してしまうだろう。私は購買には寄らず、屋上の日向で少しでも眠ろうと腰を浮かした。

 が、すぐに有里達がはしゃぎながら机を寄せて来た。

「実佳、今日何にする? クロワッサン? それともコロネ?」
これこそ校内で唯一の楽しみと言わんばかりの笑顔を、有里が向けて来る。
「私、今日お昼パス」
「えーっ、何で?」
「どっか具合でも悪いの?」

 そう訊かれても、「眠いから屋上でちょっと寝る」なんて本当のことは言えない。屋上は本来生徒の立ち入りは禁止だし、一つだけ施錠されていない入口があることを話したら、「じゃあ今日はみんなで屋上でランチにしようよ」となるに決まっているからだ。

「お財布、忘れちゃったから」
 咄嗟に口から出た嘘の中では、今までで最悪の部類に入るだろう。もちろん本当は忘れてなんかいない。でもみんな本気にしてくれて、購買で私の好きなパンと飲み物を買って来てくれた。

「貸しなんて言わないよ。こういうときはお互い様だろ」
と、幾つもの屈託ない笑顔の前で、私は萎縮するしかなかった。これで机から離れることは出来なくなった。あらゆる意味で最悪の発言だ。

 私はみんなの親切に囲まれて、仕方なく目の前のパンを食べ始めた。まるで一口ごとに睡眠薬を喉に流し込んでいる気分だ。せっかく有里が私のために人気の高いホイップアンドショコラを買ってきてくれたというのに、味なんて判らなかった。

「そう言えば、学祭終わると進路相談だね」
 メンチカツサンドを頬張りながら、何気なく倫世が言った。
「そう言えば、そんなのあったね」
と、理子が返す。

 私達の高校では、二年の二学期から三学期までにとりあえずの進路を絞り込み、それに基づいて三年への進級時にクラス替えがなされる。大まかに、大学・短大への進学コース、専門学校進学コース、就職コースに分けられ、それにより年間の授業科目数、時間についてもそれぞれ差が出る。

「私はね、もうバッチリ決めてあるんだ」
と、まさかの有里がそんな風に言ったものだから、みんな本当に驚いた。
「へえ、アンタ何すんの?」
 理子が興味津々といった顔で覗き込む。
「専門学校行って、美容師になる。それでもって、将来自分の店を持つのが夢」

 照れながら胸を張る有里の言葉に、私の驚きは倍加した。互いに親友を自認する関係のはずなのに、私は今まで有里の夢について全く聞いたことがなかった。

「マジいいじゃん。アンタらしいよ、それ」
「そうだよ。絶対いけるって。何か今、イメージ沸いたもん」
 私以外の二人が感嘆を込めてそう言うと、有里は「そうかな、えへへ」なんて髪をいじりながら、「そう言う理子はどうなんだよ」と聞き返した。

「私ん家さあ、お母さんがアパレルの店やってるじゃん。だから多分そこで働いて、いずれ店を継ぐことになると思う。お兄ちゃんはそういうのヤダって家を出ちゃったし。でも私はね、全然嫌じゃないんだ。自分も綺麗な服を着れるし、人が綺麗になる手伝いをするのって何かよくない?」
「うん、判る判る。アンタそういうの向いてそう」
「でも自分が気に入った服、店に並べる前に全部自分で買い占めちゃうんじゃない?」
「そんなこと、しないよお」

 束の間起こった笑いの渦の後、倫世が言った。
「私も多分専門学校。私はね、ホテルで働きたいの」
「ホテルって、ラブホ?」
「違うよ。海外の要人とかが泊まるすごいヤツ。そこで最初は接客応対をして、ゆくゆくはホテル全体を統括するマネージャーになりたいの」

 みんなの夢を聞いていて、一つ判ったことがある。それは、彼女達の瞳の輝き。夢を語ったり、それに対する努力をしているときには、誰の瞳にもキラキラとした輝きが宿るものなんだ。

 霞君の瞳の輝きも、きっと同じ理由? もしそうなら、私が彼のことばかり見つめていたのは、彼の瞳に宿るそれを見たがったわけは、ただ単に私が持っていないものを欲していただけのこと?

「そう言えば、実佳は?」
 ふいに有里が私に問いかけてきた。が、すぐに答えを用意出来ない。
「実佳は当然、大学よね。頭いいから」
「そうだよね。この中で大学行けるの、実佳くらいよね。いいなあ、花の女子大生かあ」
「そっかあ。そうなるとクラス、別になっちゃうよなあ」
 そういう風に話が進んでしまうと、私はただ笑顔を作っているしかなかった。

 確かにコースとしては大学進学を選択するつもりでいる。けれどそれは表向きで、本当は大学へ行く気なんかない。

 私の両親は体裁上、私が高校を卒業するのを待って離婚する気でいるから、その先どちらの援助も期待出来ない。それどころか、慰謝料に関する泥仕合の準備を今から着々と進めている彼らの目に、私の姿はもう映らなくなって久しい。奨学金を得てまで大学へ行くほど、したい勉強があるわけではないし、今後保護者の同意が必要な案件をもう増やすのは嫌だ。

 みんなそれぞれやりたいことを持っていて、それを胸を張って語ることが出来る。でも私のは、前向きな気持ちから生まれたものじゃない。だから今まで誰にも話したことはない。

 今日の昼休みは、将来の話題で持ちきりだった。恋愛関係の相談や噂話は今日に限っては出ない。

 私は自分については触れられないように、彼女達の夢への思いを引き出し、聞く側に専念した。みんなそれぞれに熱い思いを吐露してくれる。私は時折相槌を打ったり、話の内容を一段深く掘り下げるための質問を幾つか投げかける。

 会話には眠気を紛らす効果があり、それで少しは救われはしたものの、充分に昼食を摂ってしまった私には五、六時間目の授業はまさに地獄だった。

 それでも何とか眠らずに耐え抜いたのは、ほとんど尽きかけていた精神力を小さなプライドが支えてくれたのと、午前中眠り続けていた前の席の藤崎君がフケてしまったからだった。

 放課後になると、さすがにもう限界だった。過度の眠気が体力を消耗させ、立っているのもしんどい。

 私は急用があるから、という理由で有里達の誘いを断り、一人靴箱へ向かった。自分では急いでいたつもりだが、靴箱までの道のりがやけに遠く感じられる。

 ようやく辿り着き、靴を履き替える。少しホッとして、さらに瞼と身体が重くなる。この時間なら家には誰もいない。帰ったらすぐに寝よう。制服を脱ぐ気力が残っているかは、別にどうでもいい。

 そのときふと、誰かが私の肩を軽く叩いた。既に頭の中が眠ることでいっぱいの私は、呼び止められたことに猛烈な不快感を覚えた。
 だから私は振り向きざま言い放った。
「ごめん! 私、今日ホント急ぐから……」

 そして瞬時に大いなる後悔が私を襲った。
 私を呼び止めたのは、霞君だったのだ。私はその場に凍りついた。

 霞君は全く表情を変えないまま、
「あ、そうなんだ。ゴメン。じゃあまたにするよ」
と、手を軽く上げて歩き去って行った。

 私はもう、その場に倒れて意識を失いたいくらいだった。

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