短編小説「暁に恋して」作 清住慎 ~5.~

   5.

 地球上で一番最初に「当番」とか「日直」という制度を考えたのは誰だろう。ついでにそれを男女ペアでやらせようと思いついたのは誰だろう。

 外国では男は幼少時から紳士として教育され、女性に対して常にフェミニズムを発揮すると聞くが、私の今までの人生の中で、この国の若い男が紳士たりえたというようなことを見たり聞いたりしたことがない。

 男の子はたいてい、「掃除とか面倒臭えことは女がやるもんだ」と思っている。

 日直のペアを組んでいる大平もそう。

 彼は、黒板消しの汚れを落とすとか、床に落ちているゴミを手で拾うとか、そういったことに対して全く手をつけようとはしない。たまには代わりにやるどころか、私の手伝いをする気も全くないようだ。

 それでいて、私が中腰で床を這っている間に、「今度映画に行こう」だの、「帰りにお茶しに行こう」だのと笑顔で話しかけてくる。私が彼の誘いに応じない理由を、彼が自ら悟る日ははたして来るのだろうか。 

 自ら敵を増やす気もないし、こういうことを女の子から教わるのは屈辱だと思うから、私は別に指摘しない。にっこり笑って、「また今度ね」と、柔らかく払いのけるだけだ。

 かくして日直の労働負担は私に多くのしかかる。音楽室の黒板消しもクリーナーもどちらも古かったから、私は仕方なく廊下へ出て窓から身を乗り出した。

 どうして音楽室だけ、後から使うクラスの日直が前の授業の片づけをしなければならないのかしら。何故音楽の授業があるときばっかり日直に当たるのかしら。

 なんて思いながら黒板消しを両手に持ってパンパンと叩き合わせる。粉の舞う様子に思わず顔を背ける。

 でも音楽の授業は好きだ。歌うのも好き。けれど私の音域は狭いから、高い音はファルセットにしないと出ない。

 担当の和原先生はそれを快く思ってくれない。あくまでも実声の歌唱力を伸ばすのが基本というのが信条だからだ。それも判らなくはないけど、歌なんてそれぞれが好きなように楽しく歌えればそれでいいんじゃないかしら、と思う。

 音楽のテストにしても、ジャンルや歴史、楽典についてならば判るけど、歌うことに対して点数をつけるのはどうなのかしら。

 周りに誰もいないのをいいことに、私は窓辺で今月の課題曲を歌ってみた。高音域はファルセットにして。

 うん、いい感じ。この方がずっといい。

 実声で苦しげに呻くより、この方が結構高いところまで震えずに伸びやかに行ける――、そう思った次の瞬間、私は危うく両手の黒板消しを落下させてしまうところだった。

 ふいに訪れた人の気配に、私はこの上なく驚いた。そして振り向き、それが誰だか知ったとき、顔から火が出るほどの羞恥が来た。

 それは霞君だった。そのとき私に出来たことは、黒板消しを強く握りしめて彼の顔を見ることだけだった。

 もう最悪! よりにもよって、霞君にこんな恥ずかしいところを見られるなんて。穴があったら入りたいどころか、ダイナマイトを飲んで自爆したいくらいだった。

 彼はその場に立ち尽くしていた。それも私を絶望的にさせる。せめて素知らぬふりをして、さっさと行ってしまってくれればよかったのに。私の全身は硬直し、黒板消しを落とさずにいることしか出来ないというのに。

 けれど私は、羞恥のピークからしばらく解放されることはなかった。予想だにしなかった彼の次の言葉が、私に冷静さを取り戻すことを許さなかったからである。

「へえ、京野ファルセットの方が全然うまいじゃん。俺、今マジで感動しちゃった」

 霞君は、あの子供のようなキラキラした光を目に携えてそう言った。
 私はそこから先は、夢の中の出来事のようにぼんやりとしか覚えていない。

「そういう声質、ずっと探してた。もしよかったら、その声貸してほしいんだけど……」
 多分そう言われたような気がする。
「あ、でも、これだけじゃわけ判んないよね。都合がつくなら、説明も兼ねて明後日ここへ来てほしいんだ」

 彼がサラサラとその場で書いたメモを、私は右手で受け取っていた。内容をその場で読むでなく、そのとき私が思ったのは、右手に持っていたはずの黒板消しは一体どこに行ったのだろうということだった。

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