短編小説「暁に恋して」作 清住慎 ~10.~
10.
「嫌だよ」
「え?」
倫世と手分けして校内を捜し回った挙げ句、私が霞君を見つけたのは十分後のことだった。
霞君は三年生のクラスでやっていた餅つき大会に参加して、あべかわ餅を食べているところだった。私は手短に事情を説明し、協力を頼んだ。それに対する彼の返答がこれだったのだ。
「どうして? どうして嫌なの?」
「ていうか、どうして人の頭を膝蹴りするような奴の手伝いを俺がしなくちゃならねえんだよ? 奴らが直接頼みに来るならまだしも……」
「それは私が、先に準備しててってミッキー達に言ったから。もう時間ないし、お願い! 一緒に来て。面と向かえば、きっとミッキーもあのときのこと謝ってくれると思うし。ね?」
霞君は、残りの餅を口に詰め込んで返事をしてくれない。
「ねえ、お願い! クラスメイトが困ってるの。助けてあげてよ。あなたしか、彼らを助けてあげることは出来ないの。それに、絶対黒西の思いどおりにはさせたくないの。そんなことになったら、私もすっごい悔しい。ねえ時間がないの。とにかく来て」
「でもな……」
ためらう分だけ時間はなくなっていく。私は少し苛立ってきた。
「何よ! あなた、ジャズドラマーなんでしょ? ジャズって基本的にアドリブの世界なんでしょ? 初めて会う人や飛び入りの人とでも即興で素晴らしい演奏をするのが醍醐味なんでしょ? だったら、ミッキー達とも即興で合わせることが出来るでしょ?」
「無茶言うね。奴らロックだろ? ジャンルが違うぜ」
「専門的なことは、私判らない。でも一ミュージシャンとして、演奏しないでステージを潰すより、やってみてステージで失敗する方がよほど潔いと思わない? それともあなたが前向きになれるのは、自分の夢に対してだけなわけ? 他のことはどうでもいいの?」
「……」
「お願いっ! 今あなたしか、頼める人はいないのよ」
私は頭を下げて懇願した。
「……んなにミッキーが大事か?」
「え? 何?」
彼の呟きを私の耳は捉えきれなかった。
「……判ったよ。行けばいいんだろ。体育館だな?」
「あ、うん。ありがとう!」
霞君は怒ったような形相で、私を置き去りにして歩き出した。私は慌てて追いかけて、本心からの礼を言う。けれどそれと同時に、幾ら説得のためとはいえ私が吐いた暴言を思い返し、このまま二度と口をきいてもらえなくなったらどうしようと冷や汗をかいていたのだった。
「霞、お前が?」
用具入れでメンバー達と着替えていたミッキーが、私と入って来た霞君の顔を見たときの、これが第一声だった。
ミッキーがちらりと私を見る。私は無言で頷きながら、内心はらはらして成りゆきを見守っていた。ミッキーが霞君を拒否したり、霞君が「まずこの前のことを謝れ」とか言い出して掴み合いにでもなったらどうしよう。でも霞君はそんなことは一言も言わず、ちょっと用具入れ内の楽器類を見回してから、
「何曲やるんだ?」
と、ミッキーに訊いた。
「六曲」
「じゃあ楽譜かタブ譜をくれ。持ってるだろ?」
「いや、そういうのはない。毎日の練習で身体に覚え込ましちまったから」
「じゃあ何か曲の音源は?」
「それなら、俺あるよ」
と、タクちゃんが答えた。くしゃくしゃに丸まったヘッドフォンのついたオーディオプレーヤーをポケットから取り出す。
霞君はタクちゃんのところへ歩いて行って、
「こいつ、今日やるやつ全部入ってるか?」
「ああ」
「今日の演奏順になってる?」
「なってるよ」
「じゃあそれ貸してくれ。今から覚える」
「おい、ちょっと待てよ!」
そう声をかけたのはミッキーだ。
「随分態度でけえけど、お前マジで叩けんのかよ? フカシでからかいに来ただけならぶっ殺すぞ」
「大丈夫よ」
私は慌てて間に入った。
「霞君は月に何度もライブハウスのステージに立ってる、バリバリのジャズドラマーなのよ。ね?」
私が水を向けても、霞君は返事をしない。代わりにタクちゃんが「へえ、そりゃ知らなかった」と感嘆の声を上げた。が、ミッキーはそれで納得しているわけではないようだった。
「ジャズかよ。ロックのドラムと違うだろ」
「リズムキーパーとしての役割は同じだよ。信じられねえんなら、俺は帰るぜ。けどよ、お前もミュージシャンなら、演奏しねえでステージ潰すより、演奏してステージで失敗する方が潔いと思わねえか? 少しでも何とかなる可能性があるのなら、それに賭けてみようとは思わねえのか?」
あ、ずるい。今の言葉、私が言ったまんまじゃん。私はちらりとと霞君の方を見るけど、彼は鋭い目でミッキーと視線を交わしている。やがてミッキーの方が目を逸らし、着替えと楽器の調整に戻った。私の受け売りのあの言葉は、ミッキーを説得するのに効果があったらしい。
霞君はほぐしたヘッドフォンを耳に入れると、出入口の扉に手をかけた。
「おい、どこ行くんだよ」
ミッキーが慌てて声をかける。
「静かなところで集中して聴いてくる。出番三時半だろ? 五分前までには戻るよ」
「てめぇっ! これでバックレようってんじゃ――」
「あ、そうそう。俺衣装ないから、Tシャツでいいよな?」
それだけ言い残して、霞君は扉を出て行った。途端に軽音部のメンバー達が私に詰め寄って来る。
「京野、マジかよ? マジで叩けんだろうな? アイツ」
「マジでジャズドラマー? 俺知らなかったよ」
「ホントに大丈夫なんだろうか?」
霞君を紹介した責任が、ひしひしと身に迫るようなプレッシャー。
「だ、大丈夫よ。私、霞君のライブに一度行ったことあるけど、素人の私が見てもすごいテクだと思ったもん」
「けど、ぶっつけ本番だろ?」
「それは仕方ないわよ。みんなだって、判ってて霞君に賭けたんでしょ? 私はうまくいくと思うわ。霞君前に言ってたけど、ジャズって基本的にはアドリブなんだって。その場の雰囲気で、初めての人や飛び入りの人なんかとでもセッション出来ちゃうのが醍醐味なんだって。だからきっと、ちゃんと合わせられると思うわ」
私の話に納得したのかしないのか、とにかく彼らは腹を括ったようだった。
「そうだよな。今から全曲覚える霞の方だって大変だろうしな」
と、タクちゃんが言ってくれたので、私は大分救われた。
今回のことで、タクちゃんが霞君に敵意を持っていないと判ったのは意外だった。てっきりミッキーと共に攻撃的になるとばかり思っていたのに。
「でもさ、京野」
「何?」
「お前って、何でそんなに霞の肩ばっかり持つわけ?」
「……え?」
束の間、私は言葉に詰まった。
「てことはつまり、お前が授業中ぼんやり窓の外を見ている方向にたまたまヤツがいるんじゃなくて、ヤツを見るために窓の方を向いているってこと?」
「え? え? え?」
何で? どうして? タクちゃんがそんなことを。驚きのあまり言葉が出ない。この前有里にも同じことを言われたばかり。
てことは、授業中の私の行動はみんなバレバレってこと? 自分では完璧にさりげなくしていたはずなのに。有里にバレたのは親友だから仕方がないかって思っていたのに。
実は自分で思っているほど、私の演技力はレベル高くないってこと? ……だよね、コレって。ショックだけど、言い返さなくちゃ深みにはまる。
「別にそういうわけじゃ……」
言葉とは裏腹に、頬の火照りは嘘をつけない。もう少し近づいてじっくり顔を覗き込まれたら、私にごまかし通せる自信はなかった。この用具入れが電気を点けていても少し薄暗いことが、今は救いだった。
「でもよ」
と、今度はミッキーだ。
「アイツのライブに行ったことのある奴なんて、いや、アイツがジャズドラマーをやってるなんて知ってる奴は、校内でもお前くらいじゃないのか?」
そうかもしれないけど、今はそれを自慢している場合じゃない。
「そんなこと、ないんじゃない」
と、私は返した。さりげなく呼吸を整え、心拍数を抑える。
彼らはステージ衣装に着替え始めたが、特に出て行けとも言われなかったので、私は用具入れの片隅で跳び箱の上に座っていた。別に全裸になるわけではないし、見ていても少しも興奮しない。もっとも、そんなにじろじろ見つめていたわけではなかったけれど。
客席も好きだけど、ステージに立つ前の、準備をしている楽屋の雰囲気も好き。次第に高まっていく緊張感が何とも言えず心地よい。
なんて浸っていたら、いきなり扉が開いてバタバタと人が入り込んで来た。倫世だった。それに有里と理子も一緒だ。
「実佳ぁ、霞君に会えた? 私、みんなに頼んで手分けして探したんだけど……」
倫世の呼吸は荒かった。
「うん、会えたよ。ありがとう。ゴメンね、迷惑かけちゃって」
「別に迷惑なんかじゃないよ。黒西にあんなこと言われりゃあ、誰だって抵抗したくなるさ」
と、有里。
「けど、何で霞君なの? アイツ音楽やってたっけ?」
「ところで肝心の本人は?」
と、倫世が訊いたところでステージの方から拍手が響いてきた。
演劇部の舞台が終わったのだ。役者達がぞろぞろと用具入れへ下りてくる。スタッフがステージから大道具を大急ぎで搬出している。どう見ても私達部外者は邪魔者だ。
「もうすぐ始まるわ。客席に行ってましょうよ」
私はそう言ってみんなを促し、用具入れを後にした。私自身、本当は霞君が戻って来るのを確認してからにしたかったのだが、信じているなら平気なはずだと言い聞かせて客席へ回った。
客席はもういっぱいだった。演劇部の舞台が終わった後も、ほとんど入れ替わっていないのだろう。
確かに体育館での出し物のメインは演劇部の舞台と軽音部のライブの二つ。これを見なくちゃ学祭じゃないよねって感じ。部員の人数構成比は違うけど、例年集客数でしのぎを削り合えるのはこの二つだけ。
緞帳の向こうから、それぞれの楽器がセッティングされ、サウンドチェックをする音が漏れ始める。女の子達がきゃあきゃあ言いながら、バンドのメンバーの名前を呼びかけたりしている。開演か待ち遠しく、ワクワクする時間。
でも私の中からは、時間が経つほどにワクワク感は遠のいていく。ちゃんとステージは開けられるだろうか。ライブの呼吸は合うだろうか。霞君とミッキーがステージ上でもめたりしないかしら。
ワクワクの減少につれて、時間と共に不安が増大していく。次第に表情から笑顔がなくなり、強張っていくのが自分でも判る。
「なあに実佳が緊張してんの?」
なんて有里に背中を叩かれても、笑い返す余裕もない。
霞君を紹介し、諦めずにライブをやるように勧めた自分の責任が、この沢山の来客に浮かぶ期待の笑顔を前にして途方もなく大きく感じられ、逃げ出してしまいたくなる。そして今更ながら、私は何て無茶なお願いを霞君にしたのだろうと自己嫌悪に陥る。
この状況で逃げ出したいくらい大変なのは、私なんかじゃない。霞君は私の何十倍も大変な思いをしているはずだ。
幾らアドリブを重んずるジャズというジャンルでライブをやり慣れているからといって、彼はまだ私と同じ高校二年生。何十年もジャズの世界で生きて来たベテランではないのだ。
その彼に、初めてのメンバーと、初めての曲を六曲も開演まで一時間もない時点から覚え始めて、使い慣れていない楽器で、大勢の客の前でぶっつけ本番で演奏しろと私は言ったのだ。もしこれで失敗し、彼自身が傷つくようなことになったら、どんなに償っても償いきれない。
ダメだ! 今からでもライブは中止にしよう。こんな大それたこと……私、バカだった。全部私のせいだから。黒西にイビられる役は私が一手に引き受けるから。ああ早く! どうすればいい? とにかく舞台裏に行かなくちゃ。
私は顔を真っ青にして立ち上がった。
有里が「どうしたの?」と声をかける。
その瞬間、エレキ・ギターの爆音が響いて緞帳が開いた。途端に客席が暗くなり、対照的にステージに激しいスポットライトが当たる。周りの子達が黄色い声を上げて総立ちになる。有里達もみんな立ち上がっている。
え? もう開演? いつの間に?
私はステージ上に霞君の姿を探した。でも探すまでもなかった。だって一曲目は、霞君のスティックショットを合図に激しいビートを刻み出したのだから。
ボーカルが歌い出す。歓声が上がる。エイトビートのロック。音の洪水が体育館を埋め尽くす。こうなるとパイプイスは完全に邪魔者。みんな身体ごとリズムに乗って盛り上がる。
私は直立したまま固まっている。スポットライトが反射するドラムセットの方を見る。
楽しそうに全身を使ってドラムを叩く霞君の姿がそこにはあった。リズムはぴったり合っている。すごい。時々アイ・コンタクトを交わすミッキーやタクちゃんも本当に楽しそう。
曲の出だしから速いビートで、霞君はもう汗をかいている。腕を大きく振ったとき、それが飛び散るのが見える。次第に水分を含み始める白いTシャツは、きっと制服の下に着ていたもの。
すごい。カッコイイ。でも私がそう思えたのは一瞬だけ。ライトに光る彼の額の汗や、滑らかな腕の動きを見ても、今はセクシーだと思う余裕がない。
ただただ立ち尽くしながら、祈る気持ち。何とか無事に終わってほしい。拳を握り締めて私が思うのは、本当にそれだけ。
そのうち誰かが気がついた。
「あれ、あのドラム、金太じゃないじゃん」
「え? ホントだ」
「誰、誰?」
そんな声が周りから聞こえ始めると、事情を知っている倫世が得意そうに、「霞君だよ、あれ」と答えた。
その瞬間、
「ウッソ、マジ?」
「霞? ホントだ」
「アイツ、軽音部だったっけ?」
とか色々な反応があったけど、そのうちそれは、
「いいぞ、霞」
「霞君、カッコイイ」
とかの賛辞に変わっていった。
私はそれを小耳に挟みながら、ちょっと得意な気持ちになったけど、でもやっぱり心配で仕方がなかったから、話には加われず食い入るように霞君を見つめていた。
ステージは大盛況のうちに終わった。六曲とも大きなミスもなく、いいグルーブを醸し出していた。
みんながアンコールを要求したけれど、ミッキーがうまくいなしたのが印象的だった。だって霞君は六曲しか覚えていないんだもの。それを気遣ってくれたのだ。
最後のメンバー紹介のとき、ミッキーは霞君のことを「助っ人だけど最大の功労者」と紹介してくれた。
人一倍の拍手を受けながら、はにかんで中途半端な笑顔を見せる彼の姿を見たときに、ようやく私の身体の硬直は解け、私は音を立ててパイプイスに座り込んだ。全身の力が抜け、しばらく立ち上がれないと思うほど。友達が心配そうにする中、私は深い安堵の息をついて一人ニヤついていた。
結局、正ドラマーの金太君はしばらく入院とのことで、翌日の学祭のステージも引き続いて霞君がドラマーを務めた。
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