忍改め事無草 294-0/21Ⅴ
忍という季語があることを歳時記を見て知った。忍は植物枠の中にあって、どんな草花かと思った。画像を見たらシダのことのようである。シダならうちのまわりにも生えている。前にシダを見たときに句を考えてみたものの結局諦めた。そのシダの中に忍という名まえでのものがあり、異称を事無草という。忍は岩や木に着生するそうで、うちのまわりのシダは地面に生えているのでまた違うシダだろうか。
シノブ科夏緑性シダ植物。岩や木に着生する。根茎は太く、長くはい、淡褐色の鱗片を基部に密生する。葉は長柄で根茎につき、三角形で羽状に分裂する。根茎を丸めて忍玉しのぶだまを作り、夏、軒下などにつるして観賞する。忍ぶ草。事無草(ことなしぐさ)。 「大辞林第三版の解説」から)
シダ植物は、植物界の一門をなし、世界に約1万種もあり、マツバラン・ヒカゲノカズラ・トクサ・シダの四綱に大別されるという。シダ植物の大半を占める羊歯は正月飾りに用いられるということで冬の季語となっている。
スギナはトクサ科だと知って、納得したことがある。スギナもトクサも嫌いなのだ。同じ仲間だった。トクサは着物の文様にも見られる。
ヒカゲノカズラ、これは、公園で見たことがある。地に這う松だと思った。こんな松もあるのかと、松の一種だと勝手に決めつけていた。松そっくりだった。つい最近のことだ。
マツバランは、画像で見る限り、初めて見る植物だ。松とも蘭とも違うだろうにこの名まえ。熱帯に多く分布するのか。
シダにこんなに自分が食いつくとは予想外であった。
さて、夏の季語である忍は、「岩や老木等に着生」したり、「山地の樹上に生育」したりする。
【解説】
シノブ科の多年草。岩や老木等に着生するシダ植物。太い根茎が 長く這い、長い柄を持つ葉がつく。葉は三角形で羽状に分裂し、 葉裏に薄茶色の胞子が沢山つく。涼し気な葉を生かして長い根茎 を形よくまとめ、軒下等に吊るし、吊り忍として観賞する。
【科学的見解】 忍(シノブ)は、北海道から沖縄の山地の樹上に生育し、沖縄のものは常緑性であるが、それ以外の地域の個体は夏緑性となる。昔から園芸目的で利用されてきたが、近年野生のものは個体数が減少している。 (「きごさい歳時記」から引用)
これが、耐え忍んでいるように人間からは見えたということだろか。岩みたいな固いところでけなげに育ってというような。事無草とは何か。忍が事無と同意であるような、忍は事無に通じているように感じた。忍んでいれば事無、忍は事無。忍んでいるように見えて事無。では、不忍は事有ということになろうか。
異存・難色の発声(5回でアウト)
10回から5回と、半分にしたら急激に難しくなった。不安定ながらも、無意識にことばを発することは少なくなった気がする。発するときは、わかっていて言うということが多くなった。わかっていて言うのは、きょう1日捨ててもいいという自覚のもとである。
きょうも、うー言いたいということがあった。試しにじっと耐え忍んでみた。どのくらいの時間がたっただろうか。ものの十分、いっても数十分堪えていたら、静まってきた。言いたかったことはこうだ。「人のもの勝手に使うのやめて。」
それでもやっぱり使っているのを見ると気分が悪い。悪いながらも、どうせしまっておくだけなら使った方がいいかな、とか思い始めた。それから、前に貸して紛失された過去を思い出す。お気に入りだったものだ。
失うなら失ったで、ものが少なくなっていいかなとかも考える。例えば、1年のうち、失ったものを思い出すのはおそらく1回あるかどうかというくらいのものだろう。十分何とかなっている。物への執着は何か。今回のような場合、まず、無断で使われたことにより貶められたと感じる自尊心がある。これが一番大きいような気がする。一言「これ貸して」と言ってくれればいいものを人のことなんだと思っているのかという怒り。あとは、紛失される恐れだ。これは失う恐れ、逆から見ると、あることの安心。あると安心なのは、使いたいときのことを考えるからだろうか。
こうしていると、当初の衝動がずいぶん薄れてきたことを感じる。そしてきょう使った季語、「忍」へとつながっていくのである。
ということで、きょうは最後に一句。
忍ぶとは強きことなり事無草
2020.6.11(木)追記
忍ぶほど事無草の強さなり
きのうの句が座六であることがわかりちょっと変えてみた。