究極の< クズ >との付き合い方
存在了解内容はそれ自体現存在の一つの存在規定性なのである
ハイデガー 存在と時間より
哲学とは死という現象について知ることである。
人間は自分が死ぬということを受け止めて生き続ける存在であるということです。
なぜ唐突に哲学について語りだしたのかと言うと「クズ」との付き合い方において人間を知る哲学というものが必要となるからです。
人間は自分が死ぬということが分かっているからこそ自分を気遣う存在で、
そして自分を気遣うからこそ他人を気遣う存在でもある 。
いつやってくるか分からない「死」というものを了解しようとして人間は苦しんでいます。
「死」という自分の存在を自分で引き受けて生きていく、その実存という存在の仕方として現成化しているのが人間です。
まず、クズという状態はどのような状態にあるのかというと、無意識的に非本来性へ傾倒する様となります。
人間というのは「本来性」と「非本来性」を行き来しながら生き続ける生物です。
本来性というのは死を見つめる生き方です。
自分が生きているのに死ななければならない、それでも生き続けるという苦しみを引き受け、それでも自分の為に生きていこうとするとするのです。
ここで語られる自分とは、現存在としての自分のことで、近代的な個人という意味ではなく、過去現在未来へと続くDNAとしての自分のことを指します。
非本来性というのは、逆に死から目を背けるように生きていくことです。
「死」というものを忘れるために、世の中の調子に合わせおもしろおかしくやっていくというのが非本来的な生き方です。
我を忘れて何かに夢中になるというのも非本来的な生き方となります。
この非本来性な状態は決して悪いことではなく、人間としては積極的に陥いる状態です。
例えば、家族との団欒や自身の属するコミュニティでのコミュニケーションがそれに当たります。
そこで交わされるモノは、我々人間が積み重ねた共通の文脈を有するものでしかありません。
つまり、オリジナルではなく、使い回された言語なのです。
テレビやインターネットの普及で、オリジナルは使い回された言語に埋もれてしまっています。
過去の哲学者は、自らの思考を落とすのに最適な言葉を創造しています。
現代でもその兆候はみられ、例えば、落合陽一さんの「デジタルネイチャー」やメタップスの佐藤さんの「評価経済」など、新たな言葉を使わなければ伝えられない全くオリジナルな言語が偶発的に発生する状態を本来性と言えます。
クズは何処にでも存在し、生成されるので逃れることは出来ません。
歴史を振り返っても、最初は健全なグループでもいずれバカやクズが誕生します。
その為、逃れるのではなくそれすらも受け入れる事ができる自分を作ります。
それは、思考形態であったり人格であったり様式は様々です。
人間の進化の過程では、一見無駄な存在も存続の可能性の一部として必要なことを留意しましょう。
例え全く反対の自分にとっては良くない考え方も、ある時代では必要な考であった可能性が高く、一概に他者を蔑むことは自らの無知をさらけ出すことと受け止めましょう。
人間の中には非本来性な生活様式に人生の全てを捧げ死んでから悟る事が多々あります。
これもまた悪いことではなく、その存在価値はめぐりめぐって本来性へと帰属するからです。
本来性と非本来性
本来性というのは考える葦である
非本来性というのは考えない葦である
この二つは対照的ではあるが存在としては同様のものでしかしその本質を見れば考える考えないと言う二元論で語り尽くせます。
本来性のある「考える葦」は「考えない葦」であるただただ自生してい葦というものを使って何か別の存在可能性を作り出すということができるが、
非本来性である「考えない葦」、つまりただ自生している葦というのはただそこで自生するのみで、生み出したエネルギーを自らの成長には使わず、自らがそこに存在するためのエネルギーとして消費してしまうため、エネルギーを生成しては存在するためのエネルギーに転化するため一向に成長することはない。
例えるならば非本来性な「考えない葦」というのは、歩くことはできるが全く前進しないウォーキングマシーンのようなもので、
本来性の「考える葦」というものは世界を自由に闊歩するウォーキングである
つまり、「考える葦」は「考えない葦」を養分にして、新たな存在を生み出す。
本来性と非本来性を行き来する時に、こぼれ出した差異が現存在の価値である。
だからこそ、クズを排除する方向に舵を切るのはのは具の骨頂であり、本質を得ない。
ある程度の棲み分けは可能だが、クズは大切な養分となるのである。