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地質学考8 戦後の日本地質学の混乱期
都城先生に関連して,日本の地質学の戦後史について見ておきましょう.都城先生より以前の日本地質学の歴史については,都城先生自身がいくつか評伝を書いているので,それを参考にしてください*16.都城秋穂先生自身は,第二次世界大戦後の日本の地質学の混乱期に活動した研究者でした.
表題にある「混乱期」というのは,第二次世界大戦後の日本で,地質学者に「歴史主義」と「物理化学主義」という2つのグループができ,両者が色々な場面で陰に陽に激しく争い,双方に深い傷を残した事件を指します.その結果,日本の地質学にプレートテクトニクスが導入されるのが,世界に比べて10年ちかく遅れたとされています.この混乱期については,泊 次郎氏による「プレートテクトニクスの拒絶と受容 新装版」*17 に詳述されています.もっとも,この著作は,現在の科学哲学・科学史の基本原理の1つであるラリー・ラウダンの研究伝統の考え方に基づき,歴史主義と現在主義という2つの研究伝統の相克として,この事件を説明しようとする試みでした.ただ,泊氏の論考は,この混乱期の現象が研究伝統の考え方に当てはまるかどうか,という検討は不足しているようにも思います.本稿では,この点を,考えてみましょう.
泊氏が,戦後日本地質学の研究伝統の1つとしている「歴史主義」は「歴史法則主義」とイコールです.地質学は研究対象として地球の歴史について扱うので,研究が「歴史主義」に基づくというのは当たり前の主張のように見えます.しかし,ここでいう歴史主義あるいは歴史法則主義というのは,「地球で起こるできごとの時系列変化には,物理・化学では説明できない独自の法則性がある」とするものです.歴史主義の人たちが使った地向斜説は,「あるとき地球の表面に大きな溝ができ,ここに厚い堆積物がたまって,さらに沈降する場ができる」という説です.地向斜ができた後,一転して隆起が始まり,最後には高い山脈を形成するという造山帯説とセットで扱われることがしばしばあります.高いヒマラヤ山脈が,化石を含む海底でできた地層でできているというのは,昔は地向斜だったところが,造山作用によって一万m近く隆起したからだ,という説明ができるようになります.歴史主義では,溝ができたり,隆起が起こったりするのは,地球の歴史自体に,この順番に起こるという独自の法則があからだ,と考えます.なぜその順番になるのかは,「なぜ作用・反作用がセットになるか」というのと同様に,「それが基本法則だからだ」ということになります.地球の時系列変化に独自の法則性があるという地向斜説と造山帯説のセットは,歴史主義の研究者にはぴったりフィットします.他にも,「古生物は体が巨大化したり,形が複雑になるように進化する」という定向進化説や,「1つの動物が卵から成体になるまでの変化は,動物の進化そのものの変化と似ている」とする反復説なども,歴史主義の古生物学者が好みました.地向斜説も,定向進化説も,反復説も,実例を挙げることができるものです.実際にそうなっいるのだから,「そうなるのに決っている」のです.この考え方は,人間の歴史にも,自然の歴史と同様に歴史法則が存在している,とする唯物史観に通じるものがあり,マルクス主義を信じる科学者に支持されました.
「歴史主義」に対立するのは「物理化学主義」です.泊氏は,これが「現在主義」とイコールだとしています.実際,昔はそういう整理がなされたことがありました.「現在主義(ユニフォーミタリズム)」は,「現在は過去の鍵である」という考え方で,現在の地球上で起きていることは,過去の地球上でも起きていた,とするものです.現在,地球上で起きている現象は,物理や化学の法則に従うので,過去にも従っていたと考えるわけです.現在主義に対して,現在の地球上で起きていないことでも,過去には地球の様子を大きく変えるような出来事があったはずだ,という考え方を「激変説」と呼びます.物理化学主義で研究していても,隕石衝突のような激変説を否定するわけではありませんから,物理化学主義=現在主義とはいえないと思います.
また,「物理化学主義」の物理化学は,研究の手段としての物理や化学ではありません.科学史家の中には,そのように単純にとらえて,歴史主義の研究者も物理や化学を使っていたから,歴史主義と物理化学主義は対立したものではないという説明をしてしまう人がいます*18.残念ながら,これは誤りです.物理化学主義の研究者は,地球の歴史を説明するときだけに成立する法則がある,という歴史主義の考えを否定します.現在主義でも激変説でも,時系列変化については,物理や化学を摘要して説明ができると考えるのです.このため独自の歴史法則を主張する歴史主義とは相容れません.「物理化学主義」というレッテルよりも,「反歴史法則主義」とした方が分かりやすいかもしれません.
物理化学主義にもとづけば,「地球表面に新たに溝ができるのは,プレートの動きの変化によって力が加わるからだ」.「造山帯ができるのは,大陸の沈み込みでプレートが厚くなって隆起したり,付加体堆積物が大陸の下にたまって隆起するからだ」という説明をするわけです.物理化学主義の研究者にとって,プレートテクトニクスの提唱は,そうした体系的な説明を可能にするものでした.
歴史主義の人たちは,歴史法則を使わなくてもすむプレートテクトニクスを拒絶し,物理化学主義(反歴史主義)の人たちはプレートテクトニクスを受容した,という方が,歴史法則主義と現在主義の研究伝統の対立という説明よりも分かりやすいのではないかと思うのですがどうでしょう?
また,この頃,世界は東西冷戦の時代でした.歴史主義の人たちは東側のソビエト連邦の自然科学を好みましたし,物理化学主義の人たちは西側の自由主義の自然科学を好みました.スプートニク・ショックの頃は,東側の科学・技術の方が優位とみなすこともでき,歴史主義にも勢いがありました.また,第二次世界大戦後の日本は,地理的にも西と東の境界にありました.このため,歴史主義と物理化学主義はイデオロギー対立や政治的な対立の側面を強く持っていました.そういう意味では,両者は純粋な自然科学の考え方の違いだけではなく,思想信条による対立という側面も大きいということができます.歴史主義の研究者は,地向斜説を研究伝統としていたわけではなく,その思想信条にフィットする考えを採用していただけではないかと思います.実は,歴史主義とは別に,本当に地向斜説を研究伝統としていた第三の研究者グループがあったのですが,話がややこしくなるので,それば別にしておきましょう.
都城先生は物理化学主義の立場の代表格で,反歴史法則主義の立場で歴史主義の人たちと対立し,逆に攻撃も受けていました.Wikipediaの都城秋穂の説明*19 は,誰の文章かは分かりませんが,そうした事情を表現したものでしょう.イデオロギー対立や政治的対立を絡めて争うこことが,個々の科学者を苦しめたことも事実です.東西冷戦の終結によって,歴史主義と物理化学主義の対立は決着がつき,地質学にとって不幸な時代も終ったと考えられます.若い人たちの中には,泊氏の著作を読んで,そういうことが昔はあったようだが,今は起こらないだろうと思っている人がいるようです.
20世紀後半は,東西冷戦下の緊張があったからこそ,西側は民主主義や自由主義を守るために協力し,東側は全体主義を強化していました.21世紀になってからは,気候危機を根拠に世界の協力を作ろうとしましたが,これは失敗してしまったようです.近年のアメリカやロシアなど政治状況を見ていると,20世紀前半の不幸な出来事は二度と起こらないだろうということは自信を持って言い切れないところがあります.しかし,戦後の日本地質学に起きた出来事は,二度と繰り返してはならないと思います.自然科学研究も人間の手によるものではありますが,理論の成否は,イデオロギーや政治的なことではなく,やはりデータに基づいて判断すべきです.
*16 都城秋穂,2009.地質学の巨人 都城秋穂の生涯 第2巻 地球科学の歴史と現状,東信堂,376頁.
*17 泊 次郎,2017, 新装版 プレートテクトニクスの拒絶と受容, 東京大学出版会,280頁.
*18 栃内文彦, 2002, 第二次大戦後の日本地質学界における“ 歴史性論争”一舟橋三男は“ 歴史主義者” だったのか?一, 科学史研究, 41, 65-74.
*19 https://ja.wikipedia.org/wiki/都城秋穂 (2025/2閲覧)