スーパーブロックの原点「セルダ案」
またもや、2年ほどnoteをほったらかした神谷です。今日は、最近どうやら日本で話題になっているバルセロナのスーパーブロックの原点に当たる都市計画について、触れたいと思います。
バルセロナの都市計画を支えた「セルダ案」とその進化
バルセロナのスーパーブロック(Superilla)は、19世紀にイーデフォンス・セルダ(Ildefons Cerdà)が提案した都市計画「セルダ案(Pla Cerdà)」にそのルーツがあります。セルダ案は、都市が過密化し衛生状態が悪化していた当時のバルセロナにおいて、都市拡張のビジョンとして採用されました。
セルダ案の特徴と先進性
セルダ案が目指したのは、「全ての人に快適で平等な都市環境を提供すること」でした。そのために、バルセロナのエリアにグリッド状の街区を設計し、現在のEixample地区の基盤を形成しています。以下に、セルダ案の具体的な特徴をまとめます。
整然としたグリッド設計
セルダ案は、約113メートル四方の街区を整然と配置することで、都市の拡張性と効率性を確保しました。この設計は、交通網のスムーズな構築に寄与しています。
カットされた角(チャンフラ:Xamfrà)
各交差点で45度にカットされた角は、視認性と交通の流れを向上させるだけでなく、開放感のある都市空間を生み出しました。
公共スペースと緑地の確保
街区の中心を緑地や庭園として活用する設計は、住民がリフレッシュできる空間を提供するものでした。これにより、光や風が行き届く都市環境が実現しました。交通とインフラの効率化
セルダは当時の最新技術を取り入れ、鉄道や上下水道の整備を都市計画に組み込みました。これにより、都市全体の機能性が向上しました。
セルダ案とスーパーブロックのつながり
現代のスーパーブロックは、セルダ案の基本理念を引き継ぎつつ、より環境や住民の生活に焦点を当てた形で進化しています。
例えば、スーパーブロックでは、複数の街区をまとめたエリアで車両の通行を制限し、歩行者や自転車が中心の空間を創出しています。このアプローチは、セルダが提案した「快適で健康的な都市空間」というビジョンを、現代のニーズに応える形で実現したものと言えるでしょう。
セルダ案が作り上げたバルセロナの都市の骨格は、150年以上経った今も息づいています。スーパーブロックはその土台を活用しながら、新しい都市生活の形を模索しています。この進化のプロセスは、私たちにとって非常に興味深い学びの場となるでしょう。
セルダ案の誕生:対立した計画
19世紀半ば、バルセロナは城壁に囲まれた密集した都市で、人口の急増により深刻な衛生問題と過密化が進んでいました。この問題を解決するため、バルセロナ市とスペイン政府は都市拡張計画を進める必要に迫られます。その中で、最終的に採択されたのがイーデフォンス・セルダ(Ildefons Cerdà)の「セルダ案」ですが、それに先立ってフランス人建築家レオン・ジャウセリー(Léon Jaussely)が提出した計画案も検討されていました。
レオン・ジャウセリーの計画
フランス人建築家ジャウセリーの計画案は、19世紀の典型的な美学と権威主義を反映しており、次のような特徴がありました。
放射状の都市構造
ジャウセリーの案は、パリのオスマン計画に影響を受けた放射状の都市設計を提案しました。中心となる広場から幹線道路が放射状に延び、バルセロナの中心部を強調するデザインが特徴でした。権威の象徴としてのデザイン
この計画は、美観と権威を重視し、貴族や上流階級に向けた都市づくりを想定していました。中央集権的なアプローチ
計画の中核には行政や商業の中心地を据えることを目指しており、住民の生活の質よりも都市の機能的な側面に重点を置いていました。
セルダ案との対立
ジャウセリーの案は、その美学や権威主義的な特徴が評価された一方で、次のような点で批判を受けました。
人口増加への対応不足
ジャウセリー案は、急速に増加するバルセロナの人口に対応するための十分な住宅スペースやインフラ計画が欠如していました。平等性の欠如
権威主義的なデザインは、社会的平等を重視するセルダ案と対照的でした。セルダ案は、全ての住民が光、空気、緑にアクセスできることを重視しました。柔軟性の欠如
放射状の都市構造は、長期的な都市の成長や拡張に対応しづらいと判断されました。
バルセロナの都市拡張計画において、イーデフォンス・セルダの案が採択される前に、他にもいくつかの計画が提案されました。特に注目すべきは、バルセロナ市が主催したコンペティションで優勝したアントニ・ロビラ・イ・トリアス(Antoni Rovira i Trias)の案です。
アントニ・ロビラ・イ・トリアスの計画
ロビラ・イ・トリアスは、バルセロナ市が1859年に実施した都市拡張計画のコンペティションで、放射状の都市設計を提案し、見事優勝を果たしました。彼の計画は、中心から放射状に広がる道路網を特徴としており、当時の都市設計の潮流を反映したものでした。
セルダ案の採択と他の計画の不採用理由
最終的に、スペイン政府はセルダの計画を採用しました。その主な理由は、セルダ案が当時の社会的・衛生的課題に対して、より包括的で革新的な解決策を提示していたからです。セルダの計画は、均一なグリッドパターンを採用し、通風や採光を考慮した設計となっており、住民の健康と生活の質を向上させることを目指していました。
一方、ロビラ・イ・トリアスの放射状の計画は、美観や象徴性に優れていたものの、セルダ案ほどの機能性や柔軟性を備えていないと判断されました。また、他の提案についても、セルダ案と比較して総合的な優位性が認められなかったため、採用には至りませんでした。
セルダ案が選ばれた理由
最終的に、スペイン政府はジャウセリーやアントニの計画ではなくセルダ案を採択しました。その理由として、以下の点が挙げられます。
実用性の高さ
セルダ案は、当時の最新技術である鉄道や上下水道の整備を盛り込むなど、都市の機能性に優れていました。住民福祉の重視
社会的平等を基盤とし、健康的で快適な都市環境を目指す設計が、政府の期待に応えました。都市拡張への対応力
グリッド状の設計は、都市の成長に伴う柔軟な拡張を可能にし、長期的な視野での計画が評価されました。
セルダ案が示した都市の未来
セルダ案の採択は、19世紀バルセロナの都市計画における大きな転換点でした。フランス風の権威的な都市設計ではなく、住民一人ひとりの生活を考えたセルダ案は、当時としては革新的なものでした。そしてこの理念は、現代のスーパーブロックにも受け継がれています。社会的な平等や住環境の改善を目指したセルダの哲学は、時代を超えてバルセロナの都市計画の中心に位置し続けています。
イーデフォンス・セルダ:バルセロナ都市計画の革新者
バルセロナの近代化とセルダの影響
バルセロナの現代的な姿や、その物理的・社会的現実がイーデフォンス・セルダ(Ildefons Cerdà)の影響を強く受けていることは疑いようがありません。彼の都市計画は20年にわたる取り組みの中で構想され、1859年にバルセロナの改革および拡張計画が王令により承認されました。この計画は、当時の社会的現実を分析し、技術的な解決策を提示するだけでなく、思想的な提案も含んでいました。しかし、この計画は激しい議論を引き起こし、市議会からの強い反対にも直面しました。
『都市化の一般理論』の執筆
セルダはこの時期、都市計画に関する重要な著作である『都市化の一般理論』(1867年)の執筆に取り組み始めました。この本は都市計画史において非常に重要な位置を占めています。
イーデフォンス・セルダの生涯
幼少期と教育
イーデフォンス・セルダは1815年、セントリェスのガルガ地区にある家族の農園で生まれました。彼が12歳の時、家族は戦争(「不満分子の戦争」と呼ばれる内戦)を避けるためにヴィックへ移住しました。この地で彼は最初の高等教育を受け、その後バルセロナで数学と建築を学びました。
土木技術者への道
1835年にはマドリードへ移り、土木技術者学校に入学し、1841年に卒業しました。セルダが学んだ時期は、エスパルテロ将軍の摂政時代にあたり、彼は若き国家エンジニアとしての道を歩み始めます。
エンジニアとしてのキャリアと思想的交流 : 国家エンジニアとしての勤務
セルダは国家のエンジニアとして、テルエル、タラゴナ、ジローナで勤務しました。これらの経験を通じて、彼は都市インフラや公共事業に関する実践的な知識を深めました。
バルセロナへの帰還と進歩的思想
1849年にはバルセロナに拠点を移し、都市の拡張を研究する中で、進歩的で革命的な思想を持つ人々との交流を深めました。彼は社会改革家としての一面も持ち、都市計画に社会的な視点を取り入れることを目指しました。
バルセロナの都市計画と政治活動:城壁撤去と都市拡張への関心
セルダは、バルセロナの城壁を取り壊し都市を拡張する可能性に強い関心を抱き、多くの研究を行いました。彼の計画が承認された1859年以降、都市計画に専念しましたが、同時に政治的な活動にも参加しました。
政治への関与と影響
1868年の革命で再び政治に復帰し、連邦主義の一員として活動しました。1873年にはバルセロナ県の県知事に選ばれましたが、翌年、パビア将軍のクーデターによるスペイン第一共和政の崩壊により辞任を余儀なくされました。
晩年とセルダの遺産:都市計画への専念と困難
その後、セルダは都市計画に専念するため公職を辞し、経済的困難や健康の悪化に悩まされながらも研究を続けました。しかし、保守的な復古王政時代の政府からは十分な報酬を受け取ることができませんでした。
最期とその後の影響
1876年、セルダはサンタンデールのカンタブリア地方にあるカラス・デ・ベサジャの温泉で亡くなりました。彼の業績と思想は後世に多大な影響を与え、特にバルセロナのエイシャンプル地区の都市計画として具体化され、現在のスーパーブロックの基盤ともなっています。
今でこそ、エイシャンプル地区という地区の名前になっていますが、エイシャンプル(Eixample)はカタルーニャ語で「拡張」という意味で、旧市街から拡張された地区という名前になっています。
これは感想ですが、アントニさん、コンペで勝ったのに他の人の案が採用されるなんて、ちょっとかわいそうですね。それだけ、セルダ案の方が当時の環境に適していたということですが、自分がアントニさんだったら悔しいなと思います。そして、セルダさんは温泉で亡くなっているのが意外というか、幸せな終わり方だなと感じました。