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「どら焼き」を食べたくなる映画のこと。#KUKUMU

私はどら焼きが好きだ。
いや、きちんと正確に言おう。どら焼きは、好きになろうと決めて好きになった。私にとって特別な食べものだ。

きっかけは、今から3年前。「好きな食べものについて言葉を尽くして情熱的に語れるようになったら、人生ゆたかだろうな」とふと思い立ったことだった。

なぜ好きなのか、どう好きなのかを明文化してみよう。そうすればきっと、その食べものをもっと好きになるはず。仕事で必要な自己紹介にも役立つかもしれないぞ。

「コレはおもしろい思いつきだ」と我ながら感心した。けれどひとつ問題があった。肝心の「情熱的に好きな食べもの」が見あたらなかったのだ。そこで私は「ないのなら、つくればいいじゃない」と「どら焼き」に白羽の矢を立てた。選んだ理由は、愛嬌と親しみやすさを感じるお菓子だから。特に深い考えはなかった。

その日から半年ものあいだ、私はどら焼きを毎日食べつづけた。コンビニやスーパーに置かれている大手菓子メーカーの製品から、有名老舗個人店のこだわりの逸品まで。さまざまなタイプを手当たり次第食べているうちに、どら焼きをどんどん好きになっていった。

そんな珍妙などら焼き修行を重ねている最中に、出合った映画がある。

映画『あん』公式HPより

『あん』(2015年  監督 河瀬直美)。「とっても素敵な映画だったわ」と義母が薦めてくれたのがきっかけだった。なんでも「どら焼き屋」の話なのだという。どら焼き修行僧にとっては、まさに運命の出合い。よろこび勇んですぐさま鑑賞した。

結果、この映画は私にとって大切な宝物になった。観るたびに目がとけるほど泣いてしまう。そして「また観たいな」と思う。この映画が心を揺さぶる理由は、おそらく2つある。

ひとつは、「生きる意味とはなにか」という人間が抱える根源的な難問に、はっきりした答えを提示してくれるから。その答えがとてもシンプルで、観る人の心をまっすぐに突き刺す。

もうひとつは、映画のキーである「つぶあん」が、とってもおいしそうで、しあわせそうだから。大鍋のなかでふつふつとおどる小豆を眺めているだけで、胸がいっぱいになる。立ち込める甘い湯気を想像して、おもわずホッとため息が出る。そして、つぶあんたっぷりのどら焼きを、じっくり、大切に、いただきたくなるのだ。

出典:YouTube 映画『あん』予告編

主人公の女性はハンセン病の元患者。かつて「らい病」と呼ばれたハンセン病は、顔や手足が変形したりもげたりする特異な症状から、人々に忌み嫌われ、恐れられていた病だ。治療法が確立されていなかった1931年、日本政府は「らい予防法」を制定。患者は収容施設に隔離され世間との接触の一切を禁じられた。治療薬が誕生し完治する病となったのちも、患者を壁の内側に閉じ込める法律は1996年まで施行されつづけたという。

人生のほとんどを囲われた壁のなかで過ごした主人公「徳江」。そして己のあやまちから、刑務所の壁のなかで数年を過ごした中年男性「千太郎」。映画『あん』は、2人の人生が満開の桜の木のしたで交差したその日から、季節が一巡するまでの軌跡を描いた物語だ。

徳江を演じるのは樹木希林さん。ハンセン病という、むずかしいテーマをあつかう作品ではあるけれど、彼女のユーモラスで小気味よいセリフ回しや、ナチュラルな立ち居振る舞いが、見る側をリラックスさせてくれる。徳江の存在があまりにリアルなので、半径100m以内のご近所で起こった日常を垣間見ているような気分になる。普段の暮らしから縁遠いように思われた病や差別が急に身近になる。

街の小さなどら焼き屋「どら春」の雇われ店長 千太郎を演じるのは永瀬正敏さんだ。サンダルをひっかけた足を擦って歩く姿。苦虫を嚙みつぶしたような表情で紫煙をくゆらせる横顔。卑屈に丸まった猫背。夢も希望もすべて打ち捨て、惰性で生きる中年男性を見事に全身で表現している。

河瀬直美監督の現場には「芝居」を持っていってはいけないという。求められるのは「芝居」ではなく「人」。ゆえに役者は、撮影予定が組まれている期間は24時間、その役柄本人として生活する。永瀬さん演じる千太郎は、カメラがまわっていないところでも、一般のお客に向けて、どら焼きを焼いて売っていたのだそう。

「そこまでするのか」と周囲が唖然となる熱量で出力された本作品。現実と虚構との距離が極限まで肉薄した表現を観られる点だけも、価値ある1本だと思う。

映画『あん』公式HPより

前述のとおり、映画『あん』をはじめて観たのは、今から3年前のことだ。当時、私は会社員。2歳の娘の世話をしながら、片道1時間以上かかるオフィスまで出勤するのは、なかなか骨だった。来る日も来る日も時間に追われ、仕事はスムーズに運ばず、まわりに迷惑をかけ、誰かに頭をさげる日々。帰りの電車に揺られながら「なんだかなあ」とため息をつく。私はきっと、煙草を吸う千太郎と同じ顔をしていたに違いない。

あの頃の私は、「私のいるべき場所はここではない」と毎分毎秒思っていた。今になって思い返すと、そのとき欲していた「私の居場所」とは、「人の役に立っている実感を持てる場所」「自分をひとかどの人物として扱ってくれる場所」だったように思う。役に立ちたい。認められたい。褒められたい。ねじれて肥大化した承認欲求がくすぶっていた。

そんな自分に辟易としていたときに観たのが『あん』だった。徳江の壮絶な半生に触れた私は、ガンと頭を殴られた。

映画『あん』公式HPより

14歳で施設に閉じ込められた徳江。母お手製のブラウスも、国語の教師になる夢も、子どもを持つ自由も、親にもらった名前すらも捨てなければならなかった。それでも生きるのを諦めなかった彼女が没頭したのが、お菓子づくりであり、風や樹々や月などの自然の声に耳をすますこと。彼女が導きだした「生きる意味」を、千太郎に語るシーンがある。

「ねえ、店長さん。わたしたちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば、何かになれなくても、わたしたちは、わたしたちには、生きる意味が、あるのよ」

––人が生まれてきた意味は「世のため人のために役立つため」ではなく、「この世を観るため、聞くため」である。––

過酷な半生のなかで、独自の哲学を持つに至った徳江。彼女が取り組む「あん作り」の仕事は、力強く、人の心を動かすものだった。

徳江は小豆に顔を近づけて、小豆の表情を観察し、聞こえるはずのない声に耳をすます。つややかでふっくらとした豆は、充実の表情をしている。あんを包むのは、千太郎お手製のどら皮。焼き色はしっかりめで、こんがりきつね色。大きさは、女性の手のひらにおさまるほどの小ぶり。そこに、しっとりして柔らかいテクスチャのあんがこんもりと盛られる。小豆の声を聞きながらつくる徳江のあんは評判を呼び、お店は徐々に繁盛していくのだ。

この一連のシーンやセリフは、ひとかどの人物、何者かになりたいと強く願う人間のサガが、生きる世界をいかに狭くしてしまうかをわからせてくれる。「見られる側」ではなく「見て、聞いて、感じる側」に生きる意味を見出した徳江。壁の中しか知らないはずの彼女の世界のほうが、自由を享受しているはずの私よりも圧倒的に豊かで、のびやかだった。

映画『あん』公式HPより

映画を観たあと、私は徳江の生き方の一部をおすそわけしてもらったような気分になる。周囲の目から自分を開放して「見られる側」から降りる。そして、能動的に「見る側、聴く側」に身を置く。身のまわりの様々なものに、目をこらし、耳をすまし、じっとその行為に集中する。

するとどうだろう、普段聴こえなかった野鳥の声が耳に届き、季節の花が目に入る。吹く風を全身で感じられるようになる。肩の力が抜け、自分を取り囲むすべてが愛おしくなる。そして、どら焼きを無性に欲する自分に気づくのだ。ああ、食べたい。やさしい、あまい香りに包まれたい。

そのとき、私が手に取るのは決まって香炉庵のどら焼きだ。手のひらにおさまるサイズ感が、映画に出てくる「どら春」のどら焼きに少し似ている。一方、どら皮の特徴は千太郎の焼くそれとはまったく違う。生地に黒糖が練り込まれていて、コクのある風味がクセになる。黒褐色の色味も食欲をそそる。香炉庵のオリジナルだ。

自称どら焼き大好き人間を名乗り、たくさんのどら焼きを食べてきた私のNo.1。

香炉庵のどら焼きも、きっとたくさんの愛情を受け、おもてなしされ、大切に作りあげられたのだろう。だって、こんなにおいしいんだもの。

写真・文:森川紗名
編集:栗田真希

食べるマガジン『KUKUMU』の今月のテーマは、「お菓子」です。4人のライターによるそれぞれの記事をお楽しみください。毎週水曜日の夜に更新予定です。『KUKUMU』について、詳しくは下記のnoteをどうぞ。また、わたしたちのマガジンを将来 zine としてまとめたいと思っています。そのため、下記のnoteよりサポートしていただけるとうれしいです。

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