目指すは「うまいおいなりさんをつくる、イイ女」 #KUKUMU
油あげと疎遠だった、あのころ。
年を重ねてよかったと思うことのひとつに、「油あげの魅力を知れたこと」が挙げられる。
20代のころ。私と油あげの関係はとかく寒々しいものだった。なにしろ油あげの容貌は質素すぎる。ボリューム皆無。シズル感もイマイチ。おまけに「油ぬき」なる謎の調理工程が料理初心者にやさしくない。見た感じパッとしないクセに、ちょっと手間をかけさせるところが、分不相応というか、ふてぶてしいというか。いけすかない奴だなあと思っていた。
そんな調子で、油あげに圧倒的偏見の目を持ったまま過ごした20代。しかし人生とはわからぬもので、30代もなかばを過ぎた今、油あげとは実に友好な関係を築いている。
スキです、おあげさん。
ためしに、直近5日分の夕食をふりかえってみたい。
油あげの活躍っぷりにご注目。水曜をのぞいて、ウイークデイの夕食に連続出場。清廉かつ奥ゆかしい油あげは、毎日顔をあわせても飽きがこない。チームの調和を考えて身を処すタイプだから、その場にいるだけでみんな安心。自発的に料理の旨味を底上げしてくれるし、まちがっても主役を喰うようなマネはしない。まさに縁の下の力もち。名脇役。名リベロ。
10年前は「いけすかない奴だなあ」と思っていた油あげ。けれど30代で家庭をもち、子をもち、毎日台所に立っているうちに、ひとりでにわだかまりが溶けていった。今では「おあげさん」と敬称をつけてお呼びするほど、いとおしい存在だ。
あれほどじれったく思えた油ぬきも、いつのまにか片手間にこなせるようになった。それは多少人生経験を重ねて、油ぬきよりめんどうな些事が、世の中にあふれていることを知ったからかもしれない。たとえば住民税をコンビニで納めるとか、マイナンバーカードを作成するとか、ね。
しかし。
好きな食べものを問われたとき、私は堂々と「おあげさんです」と答えられずにいる。なぜなら、私とおあげさんの関係は、まだまだ「昵懇の仲」とはいえないからだ。私たちが蜜月のときを向かえるには、越えなければならない壁がある。
それは「いなり寿司をつくる」という巨大な壁。
そう、私はいまだ、いなり寿司をつくったことがない。
おいなりさんは、買うもの?
いなり寿司。通称「おいなりさん」と聞いたとき、人は何を思うだろうか。私は思う。「買うものだ」と。だって、おいなりさんをつくる過程のめんどくささは、マイナンバーカード作成のそれに匹敵するのだから。
ああ、もうダメ。プロセスを書き連ねるだけでめまいがする。これらをこなすには、ざっと2時間は見積もらねばならない。なにがイヤって、2時間の労力をかけても「おいなりさんはメイン料理になり得ない」「栄養価的に不完全」というもどかしさ。夕食に出すのであれば、肉や野菜も添えたいところ。しかしそれを叶えるには、さらに1時間は必要だ。
私は言いたい。やってられるか、と。
けれど、手づくりのおいなりさんって、やっぱりいいんですよね。ご家庭各々の味付けが光るし、手間がかかるぶん愛情を感じる。見た目もかわいい。なにより、普段はバイプレイヤーとして存在感を発揮するおあげさんが、「おいなりさん」の舞台では主役になる。強いライトがあたる。一世一代の輝きをみせる。
それに「うまいおいなりさんをつくれる」って、すごく「イイ女」感、ありませんか。
おいなりさんを、いつかはつくってみたいと思いながら幾年月。おあげさんと仲良くなってきた今こそが、「イイ女」に挑戦する頃合いではないだろうか。
ということで、2022年10月。はじめておいなりさんをつくってみました。
いざ、おいなりさん。
まずは買い出しから。近所のおいしいお豆腐屋さんに繰り出します。
いなり疲れ、襲来。
と、順調に進んでいるように思えた寿司づくり。しかし、ここでトラブル発生。いわゆる「いなり疲れ」が私をおそったのだ。
はじめてのおいなりさんづくり、おあげさんに何かあってはならないと、赤子を見守る母のごとく気を張っているうちに、いつのまにか疲労していたらしい。
さらに酢飯なんて普段まったくつくらない私は、ごはんに投入する大量の砂糖におっかなびっくり。ごはん3合に砂糖大さじ5。こんなに入れてほんとに大丈夫? 不安になって何度も味見をくり返した結果、胃も心も疲れてしまった。そのうえ酢飯の味が決まらない、しっくりこないというヘビーなパンチも加わって、徒労感がハンパない。
酢飯の桶にぬれ布巾をかけて、私はすべての作業を一度中断することにした。キッチンから離れ、居間にあるお気に入りのリクライニングソファに身をしずめる。酢飯でふくれあがった腹をさすりながら、ひと息。
「ふう」。
おおきなため息をついたとき、私は思った。「はぁ、私に『おいなりさん』はまだ早かったのかな……」
目指したのは「うまいおいなりさんをつくるイイ女」。もっと言えば、運動会の朝にチャチャっとおいなりさんをこさえて「今日は簡単なものばかりだけど~」とさらりと言ってのけるクール・オカンが目標だった。でも身をもってわかった。おいなりさん、ぜんぜん簡単じゃない。おあげさんと親密になるには、いっそうの鍛錬が必要なのだ。
おいなりさんを手軽にパッとつくってしまうあの人もこの人も、変化がないように見える地味な毎日のなか、スモールステップを重ねて、腕を磨いてきたのだろう。うーん、まだまだ私は道なかば。いやいや、おいなりさんにかぎって言えば素人だわ!
大きな伸びをひとつして、立ち上がった。
「さて!」
出来るかぎりの手を尽くし、最良のかたちで初のおいなりさんチャレンジを終わらせなければ。
目指せ、イイ女!
再びキッチンに立った私はキレイに手を洗ったあと、酢水で指をぬらした。左手ですっかり冷めた酢飯をぐっと握る。右手で煮汁をたっぷり吸い込んだおあげさんをギュっとしぼる。そして、キュッキュッキュと酢飯をつめる。キュッキュッキュ。キュッキュッキュ。
「いなり疲れ」をふり払い、なんとか出来上がったおいなりさん。まるで高級枕のようにふくれあがっている。おそるおそる重さをはかると、ひとつ142gもあった。(*全国のいなり寿司の重さは平均約45g)
ごはんは3合も炊かなくてよかったな、2合で十分だった気がする。
おいなりさんの他に、具だくさんのみそ汁や鶏の唐揚げもととのえて、食卓の準備はばっちり。夕食の席についた夫は感嘆の声をあげた。「おお~! うまそう!」
そのひと言で、しつこい「いなり疲れ」も吹き飛ぶというもの。ありがとう、夫。
いただきますの挨拶もそこそこに、夫はさっそくおいなりさんをほおばる。モグモグ。モグモグ。
フゴッ。
夫はむせた。うむ、むせるのも無理はない。なにせ相手は140gもあるおいなりさん界の巨漢である。急ぐ必要はない。よく噛むがよい。
お茶をすすり、みそ汁をすすり、やがて1個のおいなりさんを食べきった夫は言った。
「味、うすいね!」
ですよねー! わかるー!
夫のてらいのない言葉に、思わず笑ってしまった。
全体的にもう一歩、いや、もう五歩な仕上がりではあったけれど、見れば見るほど、食めば食むほど愛おしくなってくる。それは手づくりならではのマジックだ。
初のおいなりチャレンジは、うまく運ばなかったけれど、懲りずに腕を磨いていこう。そして来たる40代。今より少しは熟しているはずの料理の技と精神力をもって、最高のおいなりさんをつくるのだ。
目指すは「うまいおいなりさんをつくる、イイ女」!
20個のいなりずし、3日かけてすべて完食。ごちそうさまでした。
文・写真:森川紗名
編集:栗田真希