邂逅
赤い葉が風に揺れる、穏やかな秋の日。
宮殿は温かな陽射しに包まれていた。
その光が窓ガラスを通して差し込み、室内にやわらかな輝きをもたらしていた。この日は、女王陛下が7ヶ月ぶりに民衆の前に姿を現す日に相応しい陽気だった。
宮殿の中庭には、華やかな花が咲き誇り、優雅な風景が広がっていた。
女王陛下は、淡い色のドレスに身を包み、その美しい微笑みで民衆を迎え入れていた。彼女の周りには、期待と歓喜に満ちた視線が集まり、心地よいざわめきが漂っていた。
乳白色の騎士服に身を包んだイルは、最上位の階級を示すその装いを身に纏い、慌ただしい準備の末に、西方の宮殿の門へと歩を進めていた。
イルが眼鏡越しに投げかける視線は、鋭く切れ味のあるものだった。
特に尖った顎が彼の佇まいを際立たせ、氷のような髪の色は、そのシャープな印象を一層引き締めていた。
それでいて気が利いたユーモアのある彼の存在はカリスマ性に溢れ、周囲からの信頼を集めていた。
人々の歓声が遠くで響き、イルは宮廷騎士としての任に心を傾けていた。けれども、その瞳の奥には灰色の不安が巧妙に滲んでいた。
彼はもともと人々の微妙な感情に鋭く気づく資質を持ち、傷つきやすい心を秘めていた。しかしこの頃、彼が最上級の宮殿騎士としての地位を手に入れたことで、ますますその心は沈んでいくように感じられた。
周囲の者たちは実際、内心で軽蔑しているのではないか。
自分の言動を陰で笑っているのではないか。
そのような不確かな疑念が、彼の頭の中で延々と繰り返されていた。不安の闇が、迷い込んだ迷路のように、彼の心を逃れることができずにいた。
民衆からの熱い眼差しが注がれる中、イルはもはや以前のように笑うことができなかった。彼の孤独と不安は、内面でじわりじわりと膨れ上がっていた。
…
「おいイル、また”それ”か?」
式典が終わった後、同じく宮殿騎士であるロビンが声をかけた。
黒い髪を後ろに引き上げたその男は、生真面目さが容貌に滲み出ていた。
ロビンは眉を顰め、イルの手の中の煙草を睨みつけた。
イルは一瞬表情をこわばらせたが、すぐに笑みを浮かべて、煙草を地面に擦り付けた。
イルにとって煙草は刹那的な平穏をもたらす唯一の手段になっていた。
「おっと、まずい人に見つかっちゃったなあ。上には内緒で、お願いします。」
そそくさと逃げ帰るように立ち上がるイルにロビンは怪訝な視線を向ける。彼の最近の様子は明らかにおかしい。
こうして人気のないところで煙草を吸い、夜は自室で一人ウイスキーを飲み明かしているようだった。
ロビンは以前より濁ったイルの目をしっかり見据えて話しかけた。
「イル、契約はまだだったよな。」
「...ああ、悪魔との?」
「そうだ。相性のいいやつを相棒にしたら、その...少しは気が紛れるかもしれないと思って。お前最近少し様子がおかしいから。」
いつも無愛想なロビンの、珍しく心配のこもった声色にイルはハッとする。
もうこの不安症は隠しきれていないというのか。
イルにとって、不安症の影が人に漏れてしまうことは、何とも自分を裸にされたような恥ずかしさを伴っていた。
イルは繊細な心を持ちながらも、その脆さを隠すため、日常の仮面を軽やかな笑顔で被っていた。どんなに心の奥が傷つこうとも、その振る舞いは風のように軽快で、周囲にはその不安の片鱗を感じさせないようにしていた。
そうして心の嵐が静まるのを待っていたのだ。
だが、その演技が誰かに、しかも同期のロビンに見透かされていたと知ったとき、彼にとっては耐え難いほどの恥ずかしさが訪れた。まるで自らが作り上げた仮面が剥がれ落ち、その下に隠していた真実が白日の元に晒されてしまったように感じられた。
逃げ出したい気持ちに耐えられず、イルは曖昧に笑った。
…
その日、イルは宮殿外に出る任務があった。
狭い路地を抜ける風に、甘くて冷たい香りが漂ってきた。
路地の入り口で足を止めたまま、彼はその香りに心を委ねた。白昼夢の中にいるかのような感覚が、彼を包み込んでいた。冷たさと甘さが交じり合うその香りは、まるで遠く遠くの場所から運ばれてきたメッセージのように感じられた。
そして、彼はゆっくりと歩みを進めた。路地の奥へと進むにつれて、その香りはますます濃密になり、彼の意識を包み込むように広がっていった。しかしその一方で、彼は自分が再起不能になりそうな罠に嵌っていることを予感していた。破滅願望と好奇心が勝手にイルの体を動かしていた。
小道の果てに、血だらけの男が倒れていた。
ボロ切れのような黒い服から覗く男の手足は蒼白で、傷ついた唇が微かに開かれ、苦痛と呼吸の乱れが交錯している。
彼の瞳には、一過性の光と共に死の淵への静かな覚悟が宿っているように見えた。
「大丈夫か、兄ちゃん…息はしてるな」
イルは男のそばに近づき、彼の身体を支えるようにしゃがんだ。
男は微かに口を開き、不完全なうわ言をこぼした。
「…神様、みたいな…」
その言葉が周囲に不気味な静寂をもたらした。
男の傷ついた手がイルの手にすがるように触れる。血がべっとりとつく。そしてその冷たさに驚く。甘い匂いは一層強くなった。
「死ぬう…」
傷だらけの男はやっと顔を上げた。
イルは男の顔貌に釘付けになった。全身ボロボロで汚れてこそいるが、はっきりとした目鼻立ちには異国的な情緒がある。
そして黒髪のところどころに混じる紫色の髪の毛が光に反射して怪しい輝きを放っていた。青色の目の瞳孔は、縦に伸びた形状を持ち、彼が人間ではない何かだということを知らしめた。
—-悪魔か!
イルはそう直感すると同時に彼の頭の上を確認すると、もっさりとした髪の中に小さい小さい可愛らしいツノが2本生えていた。
それは男の大きな身長や美しい顔立ちにはとても不釣り合いで、イルは思わず笑ってしまいそうになった。悪魔と対峙するのは初めてではない。しかし今までこんなに間の抜けた奴は見たことがなかったのだ。
ヘルゲラと名乗ったその男を支えて歩き、イルは宮殿の近くにある宿舎へと入っていった。
イルほどの階級の騎士であれば、公的な建物にも悪魔を連れて入ることができる。
悪魔入構許可証を門番に見せ、イルは客室のベッドにヘルゲラを寝かせた。
手荒い布で水を絞り、傷口を拭き取ると、血と汚れが混ざった水が赤く染み渡っていく。
指先が傷跡に触れても、ヘルゲラはその眉を顰めることなく耐えた。イルは手元に置いていた包帯を取り、慎重に傷口に巻きつけていった。
イルの手当ての手つきは優しく、しかし確かなものであった。
徐々に、傷口から滲む血が止まり、ヘルゲラの肌は色を取り戻していった。
「よっしこれで終わり。包帯だらけになっちゃったな。もう痛いところはないか?」
イルは軽快に問うと、ヘルゲラは少し癖のあるくしゃっとした笑みを浮かべて頷いた。
「きみは悪魔なんだろ。まあ、言葉が通じるみたいだから、しばらくここで休んでいってくれ。もちろん監視はつけるけどね。悪魔用フードはここの棚に入ってる。」
イルは普段の調子を取り戻し、饒舌に続けた。
「それにしても、何でこんなに傷だらけだったんだ」
ヘルゲラの顔が曇った。
「…お腹が空いてて。とにかく….」
言葉が途切れ、その瞳には確かな秘密が影を落としていた。
その沈黙の中には、話したくない何かがひそんでいるのだろうと、イルは一瞬で理解した。
イルは無理に言葉を引き出そうとはしなかった。沈黙の中で、彼の心に刻まれた秘密が、どこか遠くの場所へ連れ去られるのを待つような気配を放っていた。
口をつぐみ、その場しのぎの嘘で取り繕うヘルゲラの姿は、まるで自分のようだと、イルは思った。異様なる鏡の前に立っているような錯覚を覚えた。
「でも。神様みたいな人が、助けてくれた。」
ヘルゲラは急に沈黙を破ると子供のような微笑みを浮かべ、静かな一瞬の中で、ベッドに寝たままイルの手をぐいと引き寄せ、手の甲にキスをした。
イルは時間が止まったかのような錯覚にとらわれた。
手に落とされた感覚は、不安や疑念を一掃し、ただ純粋な感情だけを映し出しているようだった。
まるで自分自身が完全に受け入れられたかのような感覚に陥った。その瞬間、心の中で漂う不確かさが、何か根本的な真実に触れるような錯覚に変わった。彼は、まるで自分の在り方がこの瞬間だけで、世界の中で認められたかのように感じた。
先ほどまで饒舌だったイルが目を丸くして黙り込み、しばらく静寂が流れると、ヘルゲラはばつが悪そうに笑った。
「ええと、ごめんなさい…僕なりのお礼のつもりで。」
言葉が宙に浮かび、まるで矢が優しく放たれるかのように、イルの胸に深く、奥深く突き刺さった。その痛みは、まるで幻影が実体を持ち、静かに胸に滲みこんでいくような、不思議な感覚をもたらした。
帰宅後、イルは窓辺に座り、煙草に火をつけ、ヘルゲラのことを思い出していた。
少し間の抜けた悪魔。名前はヘルゲラと言っていたな。変わった名前、まるで遠い国の呼び名のようだ。異国的な顔立ちで、笑うと目尻が下がって。もさっとした髪の中に可愛らしいツノが生えてた。背は自分よりも高いのに、色々とアンバランスな男だった。
俺のことを「神様みたいな人」と言った。
そして、あの匂い。
ああ、あの感触が忘れられない。
あの、全てを満たすかのような感覚が、一瞬の交わりの中で交差していた。思い返す度に、その瞬間の重みが胸に響く。
—-そうだ、あの何も知らなそうな悪魔を「調教」するのはどうか。
調教して、いつも、いつもあのキスをしてくれる存在にするのはどうか。そしたら、この不安症も、少しはどうでもよくなるのではないか。
アルコールにまかせた気ままな想像が、胸の奥に静かなる潮流を起こしていた。
「明日また会いにいこう」
イルは、自分自身に対して耳打ちするようにつぶやいた。
甘くて冷たい匂いが、微かに窓から入り込んできた。
もう夜は沈んでいた。
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