夏を添えて
いつからだろうか。世間が狂い始めたのは。
いつからだろうか。生活や日常が壊れ始めたのは。
いつからだろうか。自分の身の回りの出来事がうまくいかない事を、世間のせいにし始めたのは。
『去年の倍暑いな』
このセリフは毎年言っている気がする。むしろ私の夏は、このセリフを言わないと始まらないまである。
今年の夏はいつもの夏とは違う。毎年なんの変化もない私の夏は変化を遂げた。
思うように就活が進まず、数ヶ月サボってまた就活。を繰り返す。正直、しんどい。明日のことすらわからないのに、将来のことなんてわかるはずがない。でも、先のことを考えずにはいられない。『人間よ、こんなのは悪夢だ』と思う。今日も正常に、肺呼吸して、二足歩行して、ただただ生き延びることだけを考えるだけでいい人間の事が、少し羨ましく思えるほどに。
現状、就活も終わらない。バイトもこのご時世で時間削減。毎日一人。何もかもうまくいかない。まるで老後生活。
でも、誰も、何も、恨んじゃいない。もううまくいかない事を、何かのせいにするのは去年でやめた。
早朝、狐の嫁入りを迎えて、傘も持たず、雨に打たれて歩く河川敷。哀愁漂う私の背中を、走るおじさんたちは、見向きもせずに走り過ぎていく。
そんなもんだ。所詮、他人はどこまで行っても他人でしかない。
恨んだところで、他人は他人なのだから、それ以上もそれ以下も存在しない。つまり恨むだけ無駄、合理的ではないという事だ。
「みんな幸せに」「助け合い」なんて都合のいいことを人は吐くが、そんな理想的な世界が存在するのなら、もうとっくに実現できてるし、アンパンマンとバイキンマンは争わないし、戦争は起きてない。
外面ばかりいい子ぶろうとしてる時点で、そんな世界はできない。綺麗事のなくなった事実を訴え、伝え続けることこそ、本物の綺麗事だと言えるのではないか。
夏は休みが多くて、こうした思考を巡らせる時間が自然に確保できるから嫌いじゃない。
夏は雲が自由に暴れ出す。
私は、不安や壁にぶち当たったとき、私の体内を暴れ回る行き場をなくした感情たちは、どこまでも自由な雲をみて、私もそうあっていいのではないかと、晴らす事ができる気がしている。
この文は
そんな夏を、日常を、満遍なく愛す、田舎の大学生のお話。