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第4話 のりおちゃんのこと

のりおちゃんは、わたしの守護霊的な何かである。わたしにもその姿は見えない。声も聞こえない。そもそも守護霊なのかどうかも分からないが、物心がついた時には近くにいた。そして、わたしに人生の転機が訪れた時、それとなくメッセージをくれる。

人知を超えた能力がわたしにはあるらしい。昔から周りの人にそう言われていた。わたしに特殊な力があるように見える原因の99%は、わたしが自閉症であることに起因している。残りの1%はのりおちゃんであろう。

のりおちゃんという名前は、わたしが勝手に名付けた。西川のりおのオバQのコントが好きだったので、霊的な存在というところから、のりおちゃんと呼ぶことにしたのだ。

のりおちゃんはわたしの「イマジナリーフレンド」ではない。友達の代わりに遊んでいる感じではないからだ。どちらかというと、保護者の大人のようである。イマジナリーフレンドは、実在するかのように鮮明に目に見えるというが、のりおちゃんは姿も見えず声も聞こえない。ただ近くにいる気配がするだけだ。そしてわたしが中年になった今でも、変わらずそばにいる。

今日は大切な検査の日だ。のりおちゃんも着いてきてくれるだろうか。ここしばらく気配がなかったので、わたしは少し心細くなっていた。のりおちゃんに来てほしいとき、わたしは神社にお参りすることにしている。そうすると、のりおちゃんが戻ってきてくれる。霊的なエネルギーを、神社から補充できるのではないかとわたしは考えている。RPGでいうところの、ライフが回復する泉みたいな感じで。知らんけど。

わたしは大阪府の出身である。大阪南部の「河内」と呼ばれるエリアに生まれた。ケンカをしているわけでもないのに、語尾にボケとカスが付く。田舎のくせに柄が悪い。最悪な地域である。

河内の小学校教諭の母のもとに、わたしは生まれた。父親は写真でしか見たことがない。家族は4歳年上の姉がひとり。そして母方の祖父母も同居していた。祖父はサラリーマンだったが、曾祖父は著名な書道家だったという。昔は住み込みの書生さんが何人も家にいたそうだ。わたしが生まれたとき、曽祖父はもう亡くなっていた。

母親は気難しい人で、火垂るの墓の和泉のおばさんみたいな雰囲気がある。職業がら言葉遣いにとても厳しく、わたしは他の子たちのようにボケとかカスとかワレとか、そんな言葉は使ったことがない。

ゲームや漫画も、わたしの家では禁止だった。わたしが小学校に上がったぐらいの頃に、赤と白の初代ファミリーコンピューターが発売されたが「目が悪くなる」「姿勢が悪くなる」と、学校では推奨されていなかった。母は教え子にゲームをしないように言っていた手前、自分の子供にいいとは言えなかったのだろう。

母親が定年した年、お盆に帰省したわたしは、母から「一度でいいからクレーンゲームをやってみたい」と請われ、スーパーのゲームコーナーについて行ったことがある。大阪府下の田舎町では、学校の先生は有名人だ。どこに行っても教え子や元教え子、その親や兄弟にであう。在職中はゲームコーナーに行きたくても、人目が気になって行くことができなかったのだ。

わたしも小さいころから「先生の子供」として育ってきた。同級生の家に集まってゲームをやったり、漫画を読んだりすることも禁止されていた。母親にバレると親同士で根回しされ、次からは誘ってもらえなくなった。ゲームセンターに行ったのをよその父兄に見つかり、母の職場に苦情の電話をかけられたこともある。大人になってから、学校の先生の社会的信用の高さに驚かされたが、子供の頃は嫌な思い出しかない。

わたしが東京の大学を志したのは、親の知り合いがいないところに行きたかったから、という理由がひとつにある。

わたしが思春期の間、のりおちゃんはわたしの前にあまり出てこなかった。地元を離れたい一心で、休日や睡眠時間もけずってわたしは猛勉強をしていた。そんな状況で、のりおちゃんは出る幕がなかったのかもしれない。

霊的な存在を再び感じたのは、祖父が亡くなった時である。わたしが36歳の時だった。

わたしの実家は三世帯住宅だ。母が住む実家の隣家に、祖父母と姉の家族が住んでいる。二軒の家は廊下で繋がっていて、それぞれの家族は独立しながら自由に行き来ができた。

祖母は整理整頓が全くできない人だ。今ならADHDと診断されるようなタイプだろう。祖父が寝たきりになってからは、祖父母宅はごみ屋敷同然の有様になっていた。

祖父が亡くなり、葬儀の段取りをすることになった。「そういえば、セレモニーホールの会員証があったよな」と母が言い出した。

祖父は10人兄弟の長男である。曾祖母が亡くなったとき、祖父はセレモニーホールの会員になっていた。四十九日や一周忌・三周忌など、親せきを集めて法事を行うときに、セレモニーホールを利用する機会が多いだろうと考えたからだ。自宅は人を呼べる状況ではなかった。

祖母は書類の管理も全くできない。会員証や契約書のたぐいも祖父が管理していた。祖父がいない状況では、セレモニーホールの会員証がどこにあるのか見当もつかなかった。しかしわたしは、それを一発で探し当てたのだ。どこにあるかはなから知っていたかのように。もちろん、わたしは会員証の場所なんて知らない。何しろセレモニーホールの会員になっていたことすら知らなかったのだから。

祖父母宅には、書道家だった曾祖父が残した硯箱がいくつもある。美しい蒔絵や彫刻が施された重厚な木箱である。小学校の頃に使っていた”お道具箱”を大きくして高級にした感じだ。祖母宅の仏間に入ったとき、硯箱のひとつがわたしの視界に入った。箱は赤茶色で、座卓の下に押し込まれていた。わたしはその箱が気になり、机の下から引っ張り出した。箱には鎌倉彫で牡丹の花があしらわれている。蓋を開けると、中にセレモニーホールの契約書類と会員証が入っていた。

それだけではない。会員証を発見した流れて遺品整理をはじめたわたしは、ふと目についた戸棚を開けた。中には古びたスーパーのレジ袋が突っ込んであった。今は無き「ニチイ」のものである。袋の中を確かめると、大量の綿と、干からびた小枝のようなものが入っていた。わたしはレジ袋をゴミ箱に捨てようとした。しかし、その手を制止する力を感じたのだ。

「のりおちゃん?」

この袋にはなにか大切なものが入っている。そう直感したわたしは、袋を祖母のところに持っていった。

「これは…へその緒や。」

小枝のようなものは3本あった。わたしの母は3人姉弟である。祖母はわが子のへその緒を、レジ袋に入れて戸棚に突っ込んでいたのである。3人のうち一人は子供のうちに亡くなっている。3人で唯一の男の子だった。祖父は息子が亡くなった時、声をあげて号泣したという。祖父が泣くのを見たのはその時が最初で最後だったと、祖母がむかし話していた。

へその緒は桐の箱などに入れられているのが普通だろう。しかし、長期間ぞんざいに扱われたせいで、箱は劣化し粉々に崩れ去っていた。

その後、わたしは祖父のへその緒が入った桐の箱も別の場所から発見した。へその緒と一緒に、祖父の証明写真が入っていたので、祖父のものとすぐに分かった。祖父は自分の死後、こうなることを予想していたのだろう。まるでタイムカプセルである。

遺体を焼くとき、棺に故人のへその緒を入れる風習があるそうだ。祖父の棺にも、祖父と子供たちのへその緒が入れられた。

わたしは、へその緒を見つけた直後に、祖父方の先祖の位牌を5柱と、曾祖父が高祖父の野辺送りで着用した白い紋付袴も発見している。

今、わたしのもとにいるのは、ひょっとするとのりおちゃんではなく、亡くなった祖父なのかもしれない。しかし、あの棚の中に子供たちのへその緒が入っていたことは、祖父も知らなかったはずだ。知っていたら生前どうにかしようとしていただろう。

祖父には、近くに自分の娘がいる。長年同居してくれたわたしの姉と、ひ孫もいるのだ。ずっと実家を空けているわたしに、祖父が憑く理由は無い。だから今、ここにいるのはのりおちゃんだとわたしは思っている。

今日の検査はのりおちゃんが着いてきてくれる。ひとりのときよりもずっと心強い。わたしは車に乗り込み、八幡竈門神社を後にした。

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田中さなえ/乳がん治療中
温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。

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