第35話 神の山・あの世の入口
わたしは那智の滝に向かう前に、熊野本宮にもお参りして行くことにした。富田川沿いの国道は、ソメイヨシノが満開だ。
熊野本宮大社は熊野三山のひとつだ。そして全国におよそ3000社ある熊野神社の総本宮である。
熊野信仰の中核をなす3つの神社を、熊野三山と呼ぶ。
・本宮=熊野本宮大社
・新宮=熊野速玉大社
・那智の滝=熊野那智大社
熊野三山は、それぞれ個別の自然崇拝を持っていたが、密教や修験道と結びつけられ、同一の神を祀るようになった。神道の神様は目に見えない。神が仏の姿を借りて現れたと考えるのが熊野信仰だ。これらの3つの神社を結ぶ参詣道が「熊野古道」である。2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として世界遺産に登録された。
世界遺産となった参詣道は以下の3ルートだ。
・田辺と熊野本宮をむすぶ「中辺路(なかへち)」
・田辺から海岸線沿いに那智・新宮へ向かう「大辺路(おおへち)」
・高野山から熊野本宮へ向かう「小辺路(こへち)」
中辺路は、熊野詣が全盛だった平安~鎌倉時代、最も多くの参詣者が歩いたルートである。参詣者が途切れなく歩く様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどだったという。今でいう富士登山みたいな感じだろうか。
今日は時間的に、新宮の参詣は無理だろう。本宮と那智の滝にだけ行って帰ることにする。
熊野本宮大社で御朱印をもらい、ついでに夫へのお土産を買おう。
熊野本宮に到着した。参道前におしゃれな土産物店ができていた。数年前に来たときにはなかったように思う。平日ということもあり、参詣者は外国人が多い。神社もインバウンド景気に沸いていた。
杉木立にかこまれた熊野本宮の石段を、一歩一歩踏みしめて歩く。参道の両脇には、熊野権現の奉納旗が立ち並んでいる。この世ならざる荘厳な空気がたちこめる。山梨のクリスタルラインで感じた山の空気と似ている。
日本人の信仰について知ろうとする時、“山”にかならず行きあたる。
民俗学の父・柳田國男の著書「山の人生」では、気がふれた人が山に入り、帰って来なくなった話がいくつも出てくる。
「山と渓谷」という雑誌がある。そこで山岳遭難が特集されたことがあった。わたしは運動が嫌いなので、登山やハイキングなどに関心はない。しかし、その特集は興味があって読んだ。人間は山で簡単に狂ってしまう。それがよく分かる記事だった。
気が狂っているから山に向かうのか、山にいると気が狂うのか。山での精神状態は臨死体験に近いのかもしれない。死は再生だ。熊野詣は、現世にいながらあの世に足を踏み入れる行為である。熊野信仰は「よみがえりの信仰」なのだ。
158段の石段を上りきった先に、熊野本宮の境内がある。境内には4つの社殿が並んで建っている。
・証誠殿(本宮・第三殿) 家津美御子大神(素戔嗚尊)
・中御前(結宮・第二殿) 速玉大神
・西御前(結宮・第一殿) 夫須美大神
・東御前(若宮・第四殿) 天照大神
証誠殿の前で賽銭をあげ、わたしは祈った。
(早くこの一件が終わりますように)
授与所で御朱印をいただく。御朱印を書いてもらう間、夫のお土産を贖った。日本代表のエンブレムが刺繍された「サッカー守り」だ。日本サッカー協会公認である。
夫はサッカー観戦が好きだ。熊野本宮大社は、サッカーと縁の深い神社である。
サッカー日本代表のエンブレムは、熊野三山のシンボルの八咫烏である。八咫烏は熊野大社の主祭神・家津美御子大神(スサノオノミコト)のお仕えだ。神武天皇が日向から熊野に到着された時、八咫烏が奈良まで道案内をしたという。 “勝利に導く”という意味もエンブレムには込められているのだろう。
熊野詣とサッカーにはこんなエピソードもある。蹴鞠が平安貴族の間で人気を博していたころ。蹴鞠の名人と言われた藤原成道という人がいた。藤原成道は蹴鞠の上達を祈願するため、熊野に50回以上参拝したそうだ。
八咫烏とサッカーの関係は、侍ジャパンのエンブレムに八咫烏が起用されたことから知られるようになった。しかし、八咫烏が日本サッカーのシンボルとなったのは、サッカーが日本で始まった明治時代からだ。日本サッカー協会のシンボルマークが八咫烏なのだ。
御朱印帳とサッカー守りをリュックに入れて、わたしは駐車場へと引き返した。急がなければ、17時までに那智の滝にたどり着けない。滝はいつでも見られるが、御朱印が欲しいのだ。
那智勝浦新宮道路に乗るため、わたしは新宮市の市街地まで行くことにした。
温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。