「理想」と「正解」の不毛さ
ネット全盛期の今、不明点が出てくればすぐに調べられる。本当に便利だ。昔であれば、「ああかな?こうかな?」と自分であれこれ想像したが、今はスマートフォンさえあればいつでもどこでも答えが出てくる。
でも、これは手軽でありがたい反面、別の問題ももたらす。
何事においても「正解」と「理想」を求めてしまうこと。
片付け、料理、掃除、学習法、料理、ひいては生き方に至るまで。すべてに「正しい方法」があると思えてしまうのだ。
ネットで助言を提示して下さる方々は、その道の達人。そのことが大好きで長年続けてきた方々の言葉には含蓄がある。紹介されているメソッドも輝いて見える。
「そっか、これを理想とすればいいんだ。私もやってみよう」
そう思って取り組むことになる。
だが、それで本当に幸せになれるのだろうか?
自分を追い込むことになりはしないだろうか?
そう思ったのが、数日前の我が家の「窓ふき」。詳しくは6月7日アップの「通訳者のひよこたちへ」に書いた。大きな気づきがあった。
以来、この「理想と正解への限りなき追求」に対し、私の中で懐疑心が芽生えている。その思いをさらに強めたのが、先日自宅で取り組んだセルフネイルだった。ジェルネイルではなく、普通にマニキュアを塗る方。
数年前、ジェルネイルに凝ったことがある。サロンへ定期的に行き、美しいデザインを施してもらう。施術中はリラックスできる。気分も上がる。
ただ、私の場合、自爪がもともと弱いため、二枚爪になってしまう。しかも予算も必要。ゆえに足が遠のいてしまった。と同時に、指先もフツーに戻った。
そんな日々を過ごす中、三砂ちづる先生の本を読んだ。「自分と他人の許し方、あるいは愛し方」(ミシマ社、2020年)。そこに三砂先生がブラジルで体験したマニキュアのことが出ていた。
詳しくは本書に譲るが、目からうろこだった。要は、マニキュアも「完璧な塗り方・仕上げ方」を考えてしまうから辛くなるのだ。
三砂先生の文章を読み、早速自宅でマニキュアを塗ってみた。
そっか、こういうシンプルさで良いのか。
気持ちが楽になった。
ますます「理想」と「正解」を追い求める不毛さを実感した。