越えてゆく人々
*2020年12月7日初出。
先日(2024年11月5日)、認定NPO法人抱樸理事長奥田知志牧師の講演会&藤原辰史さん・コムアイさん・太田光海さんと奥田牧師のパネルディスカッションというたいそう贅沢なイベントにお邪魔いたしました。題して〈希望の街を諦めない〉。このイベントについてはあらためてnoteに書こうと思っていますが、4年前やはり奥田牧師のお話を聴いた時のブログを発見したので、こちらに転載しておこうと思います。
2020年は大変な年でした。コロナです。でも奥田牧師は、「コロナも大変」とおっしゃいました。コロナ禍の現実を数字で確認すると、
・コロナ関連失業者数 74055人
・コロナ死亡者数 2174人
・2020年10月自死者数 2153人
という状況。軽々な判断は避けねばなりませんが、一か月の自死者数が、2月以降の病死者数とほぼ同数という事実からも、さきに「コロナも」大変だとおっしゃった奥田牧師の言葉の意味をご理解いただけると思います。
かくかように人間に災厄をもたらすコロナウイルスですが、しかし、このコロナが教えてくれたことについて考えることも大切だと奥田牧師はおっしゃいます。それは、
①全員当事者
コロナウイルスは人を選びません。2メートル以内の距離で繋がる人同士であれば容易に飛沫感染します。政治、経済、教育…あらゆる格差で分断されていた人々の元に平等に訪れたコロナウイルスにより、人々に「全員当事者」意識が生まれました。そしてその意識は、「みんなで生き残ろう」という他者性(自分以外の誰かを意識すること)を生むことになります。これまでエゴで動いてきた人々の心に自分以外の誰かを気遣う気持ちが育ったこと、それこそが人間の希望だと奥田牧師はおっしゃったのでした(パンドラの匣やな…)。
②人間とは何か
進化論的観点に立てば、サルから進化したと考えられている人間。両者の違いについて論じた興味深い学説をご紹介いただきました。
カレン・ローゼンバーグ博士によると、直立した人間は、その産道の構造により、自力出産が難しいのだそうです。これは身体的観点から見ればサルより「退化」したことになります。けれど、だからこそ人間は「社会性」を身につけたのです。ひとりで出産できないなら、手伝う誰かがいればいい。「助けて」とひとこと言えさえすれば助かる命があるのです。
でもこのひとことがなかなか難しい。近頃よく耳にする「自己責任」という言葉はこの「助けて」を封印してしまったのではないか。だとすると、それは身体的観点以上に深刻な「退化」つまり、人間の「サル化」ではないかという奥田牧師のお話は胸に刺さりました。
ポストコロナの時代、「助けて」と言える社会の創出が人間性の回復に通じるのだと思い至りました。
③普遍的事柄への回帰
「なくてならぬものは多くはない、いや一つ。」
聖書(ルカによる福音書10章42節)の言葉です。その一つとは…、もちろん命ですね。命が一番大切というのは「普遍的事柄」であるはずなのに、近年その「当たり前」が大きく揺らぐ出来事が頻繁に起きています。「経済的格差が命の格差になってはいけない。」これもまたコロナウイルスが気づかせてくれたことの一つだったのです。
奥田牧師は「津久井やまゆり園」事件から、この「命が大事」という普遍的事柄をお話くださいました。
この事件を起こした人物U死刑囚は、確信犯(自らは善を行なっていると信じて疑わないこと)であったと奥田牧師はおっしゃいました。Uの確信の根拠となったのは、「生産性」。つまり経済活動に貢献できない命は意味がない命だから奪っても構わないという考え方。ナチのT4に通じる考え方です。Uはそれを誰に教わるでもなく、この日本の空気感の中で醸成してきたのです。
入所者26名を襲い、19名の命を奪った戦後最悪の事件の首謀者U。けれどUのような考え方の人間は少なからず存在します。むしろ、「役に立つ命と役に立たない命」という、時代の言葉の分断線の上に、誰よりも晒されていたのはU自身であったのだろうという奥田牧師の言葉は聞いていて辛くなりました。Uと実際に会ってお話された奥田牧師だからこそ汲めたUのアンビバレントな思い。Uのしたことは絶対に許されることではないけれど、命に生産性を求める社会を作ったのは誰か…と自問するとき、ギュッと胸が痛みます。
第一の言葉
生きることに意味がある。
命に意味がある。
第二の言葉
自立。
生産性。
第一の言葉抜きで第二の言葉について考えても意味がない、と奥田牧師。そうですよね。死んでしまったら、自立も生産性も全く関係ない。生きてこそ、です。
私たちが目指したい共生社会とは、「非合理的選択的社会」(⇔合理的社会)です。それを象徴するのが、
大変だけど不幸じゃない。
っていう言葉。合理的に考えれば、大変な状況は不幸ですよね。でも、そんな時、
大変だけどまた会おう。
大変だけどありがとう。
そう言いあえる仲間の存在がきっと「大変な状況を生きる」人の支えになります。その言葉に温められた心を抱いている人は多分不幸ではありません。
ポストコロナの時代を生きるとは、分断によって傷ついた時代の記憶を超えていくこと。ただ生きていることが尊いのだという普遍的事柄を思い出すこと。
奥田牧師によると、抱樸とは老子の言葉で、「原木を抱く」という意味だそうです。ささくれた原木を抱く時、抱く側も傷つくことがある。「きずな」には「きず」が含まれている。出会うとは本来そういう痛みを伴うものでもある。それでも、
「誰もがそこに行かぬなら、我々がゆく。
誰もしないから、我々がする。」
という盟友中村哲医師の言葉通り、
ひとりの路上死も出さない
ひとりでも多くの自立
新たなホームレスを出さない
という実践を日々たゆまず続けていらっしゃる奥田知志牧師。私に何ができるのかわかりませんが、でも、この日、この場所で、このお話を聴いたことには絶対大きな意味がある。それを考え続けたいと思います。