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旅の終わりが旅の始まり

しらゆきはその匂いを幼い時に一度嗅いだことがある。彼女の実父が倒れた時だ。

死の匂い

病室のドアを開ける前に、ほんのりと漂ってきたその香りで、この部屋にいる人は死ぬのだと確信した。そして震えた。

しらゆきは怖くなって、ノックもせずに、左手でほんの少しだけ、静かに戸をズラして、隙間から病室を覗き込む。
窓際のベットには酸素マスクを付けた老女が眠っていて、手間の椅子には男の子がちょこんと座り、老女をじっと見つめていた。

自分一人ではないことに、何か救われた気持ちになって、右手でコツコツとドアをノックし、返事も聞かぬ前に戸を開けた。
男の子が振り返り、かわいらしい笑顔を見せる。
「しらゆきさん?」
「ええ、そうよ。あなたは?」
「えもたろうです。ばあばから、あなたのことはきいています」
しらゆきも笑顔で頷く。

そこでベッドの老女が目を覚ました。
「ごめんなさいね。まだ4つなのに、おませさんで」
老女はそう言いながら体を起こし、酸素マスクを外す。そして優しい眼差しをしらゆきに向ける。
「ネット上では何度も会話してるけど、会うのは初めてよね。ごめんね。こんなお婆さんで、しかもガリガリ」
「いえ、そんな。何となくは...」
しらゆきは言葉に詰まった。

「しらゆきさんは勘がいいから、なんでもお見通しよね」
「いえ。そんなことは」
しらゆきはそう言って少し俯いた。
「照れない。照れない。フラットでしよ」
老女は薄い笑顔を浮かべてそう言い、話を続けた。
「じゃあ、私があなたをここに呼んだ理由もお見通しよね。どう?考えてくれた?」
しらゆきは少し息を吐き、答える。
「はい。エモ太郎くんは私が育てます」

MlHOから「会いたい」というメッセージが届いた時、しらゆきは激しく動揺した。彼女の仮想通貨詐欺事件には、しらゆきも心を痛めていて、恩返しで経済的な支援もするつもりでいたが、自分からそれを言い出すのも、彼女のプライドを傷つけると思って、連絡を待っていた。
しかし、連絡が来ることはなく数年が過ぎ、突然メッセージが届いたのだ。すぐに返信をしたら、病院に来て欲しいという。
しらゆきは、彼女に命に関わるトラブルが起きたことを直感し、だとすれば彼女の幼子を自分に託したいのだと察したのだった。

「ありがとう」
老女は目を閉じて、震える声でそう言った。
すると男の子が口を尖らせて言う。
「ばあば、ぼくはひとりでもだいじょうぶだよ。ばあばがしねば、ほけんきんだってはいるんだし」
しらゆきは驚くとともに少しムッとした
「こら!そんな事言うもんじゃないのよ」
するとエモ太郎は悪びれずに言い返す。
「ぼくは、たいむましんをつくって、またここにもどって、ばあばのびょうきをなおすんだ。だからばあばはしなない」
エモ太郎の目は真剣で、しかもそれは幼い子供の顔つきではない。

しらゆきが、呆気に取られていると、老女が口を開く。
「まったく。嬉しい事を言ってくれるよね。でもダメよ。子供は大人と暮らさなきゃいけないの。それに、タイムマシン作るんだったら、もうちょい前に戻って欲しいな」
彼女は笑みを浮かべながらエモ太郎を諭す。
「こんなに綺麗な人がお前を育ててくれるのよ。みんな羨ましがるわ。それとも別の人がいい?」
「しらゆきさんが、きれいなひとで、あんしんした」
エモ太郎は少し俯いてそう呟いた。
「ホントにおませさん」
MlHOは少しむせるほどに笑った。

それからしらゆきはMlHOと長い時間話をした。お爺さんとの出会いから、SNSで年齢や夫のことについて偽った件。エモ太郎を授かった不思議な話。仮想通貨詐欺の顛末。そして、エモ太郎の驚くべき知性の話題になると男の子は少し照れた。
彼女なりのユーモアも交えながらの話は、しらゆきを飽きさせることもなく、エモ太郎も静かに聞いていた。

話が終わると、しらゆきは尋ねた。
「死ぬのは怖くないんですか?」
すると、MlHOは目を閉じて首を傾げ、少しの間考えると、穏やかな表情で言った。
「私はお爺さんに早く会いたいの。そしてまた一緒に山登りしたいわ。あの世だから、須弥山に登ろかな。そして頂上でお釈迦さまに、二人してお説教してもらうの。『歳を考えなさい』って」

「だいたい私もいい歳してパートでがむしゃらに働きすぎて、身体を壊すでしょ。お爺さんも、両神山に登るんだったら、日向大谷からのんびり歩けばいいのに、年甲斐も無く八丁尾根から鎖場攻めるから落っこちちゃうのよ。二人とも説教モノよね」

看護師が、薬のお時間ですよと言って入ってきたところで話は終わり、しらゆきは、エモ太郎の親権などについて手続きもしなければいけないので、また伺います。と言い残して、病室を辞去した。

しらゆきは帰りのタクシーの中で一人になると、涙を流した。そして、お爺さんへの愛が、死すら喜びに変えようとしている事に感動し、今まで自分が言っていた「フラット」という言葉を改めて考え直した。

しらゆきは養父に激しい虐待を受けて育った。その中には性的なものもあった。しかし母親は助けてくれるどころか、しらゆきに女として嫉妬し、激しく憎んだ。
そんな中で、ある日しらゆきの感情は凍結し「フラット」であることが、生き抜くすべになった。
ところが、それと真逆の愛の世界に今日こうして邂逅し、しらゆきの心は激しく揺れた。

MlHOが亡くなったのは、エモ太郎の養子縁組などの手続きが終わった翌日の事だった。

数日後、しらゆきは、幼子の手を引いて旅に出た。そしてSNSを捨てた。
世界中を巡り、人々と交わりながら、愛の中でこの子を育てようと心に誓ったのだった。

次話 かぐや様の恋愛政治学

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